第2回「Great Wall IP Strategy(万里の長城知財戦略)」
尖閣諸島問題は衝突画像流出事件などでいよいよ錯綜が深まっていますが、この事件以前から専門家の間では、政治・経済の様々な面で課題を有している日中関係の行方は注目されていました。成長した経済力を背景に、国際政治においても力をつけてきた中国にどのように対処するかは極めて重要な課題です。しかしその中国経済も、このままで万全であるとは思われていません。安い人件費に支えられた安価な製品輸出の拡大という成功モデルは、リーマンショックと人件費の高騰、人民元の切り上げ圧力などで既に転換点に至っており、中国企業でさえベトナムなどに製造拠点を移す動きがあると言われています。
近い将来、安価な製品製造という切り札が失われるときに備えて、中国が目指しているのは「世界の工場」ではなく、イノベーション政策(中国語で自主創新政策)を強力に行うことによって、世界市場での産業競争力をつけることであると思われます。そのために、まず国内の研究開発の活発化を促し、国内で得られない先端技術は外国から獲得できるような施策を行なっているといえるでしょう。
そのような施策の効果は、知的財産に関する統計に顕著に表れています。まず目立つのは中国特許庁への出願の激増です。2009年中国の特許出願数は30万件を超え世界3位になりました。市場が注目される新興国では、外国からの特許出願がまず増加するのが普通ですが、中国の場合、外国企業は3分の1に過ぎず、中国企業が約3分の2を占めている点で他の新興国とは事情が異なります。中国の大学からの出願件数も多く、日本では7000件前後なのに対して、その4倍以上の3万件を超えています。分野別に見ても、例えば自動車メーカーの中国特許庁への出願では、電気自動車のベンチャー事業で有名になったBYDがトヨタの出願件数とほぼ並ぶ勢いです。国際特許出願数でも2009年中国は世界5位でした。中国の特許出願の急増は2004年前後から目立ち始めています。国際標準で必須になるパテントプールにおいても、中国企業のシェアが増大しています。第三世代から第四世代携帯電話の間に位置するLTE(Long Term Evolution)の主要特許のシェアは、日本企業全体で10%程度とみられているなか、中国の華為(ファーウェイ)は、1社で約10%のシェアを持つ可能性が指摘されています。
このような特許出願の急増の原因については、いろいろな見方があります。前回話題にしたAlbert Guangzhou HuyとGary H. Jeerson のGreat Wall IP Strategy(万里の長城知財戦略)によると、特許制度の整備、外国からの投資の増大や研究開発活動の活発化など複数の要因が考えられるとしています。中国特許法は1985年に施行、1992年に第一次修正、2000年に第二次修正、2008年に第三次修正が行われました。このような制度の整備は確かに特許出願の増大の要因となっているものと思われますが、これに加えて冒頭に述べた研究開発活動の活発化を促す施策の影響は大きいと思われます。
それではそもそもこれらの特許が実際にどの程度活用されているのでしょうか。日本企業の特許活用率はあまり高くなく、50%程度は未活用であるという調査もありますが、急増している中国の特許はどの程度活用されているのでしょうか。専門家によっては、中国の今の特許急増は単なるブームで、なんとなく特許を保有していれば儲かるのではないかという程度で出願したりしているのであり、それほど利用はされていないのではないかという意見もあります。「実際に中国の知財はどの程度使われているのか」。この疑問は、現在の中国知財の膨張がどのようなインパクトをもつのかに大きく影響します。
自社で実施しているかどうかという数値は容易に入手できませんが、どの程度利用されているかという一つの指標としては、侵害訴訟がどの程度起きているかの数値から類推することができるかもしれません。中国全土の司法統計については確実な公開データはないのですが、様々な情報から推定すると、2009年の推定値で年間の知的財産に関する訴訟件数(一審受理件数、商標、著作権等を含む)が30000件を超えているものと思われます。この数字は米国の訴訟件数の3倍以上に相当します。また実用新案と特許を合わせた訴訟でも、年々増加して年間4000件を超えているものと思われますが、この当事者としては外国企業は僅かで、殆どが中国企業同士の訴訟と見られます。日本の特許訴訟件数が数百件程度で減少傾向にあることと比べると、際立って件数が多いことが分かります。この数値から見ると、権利化した特許を用いて、日本よりはるかに多く権利行使が行われていることが分かります。
もうひとつの指標としては、ライセンス契約がどの程度行われているかということがあります。中国のライセンス契約数を推定する統計としては、一つは政府の発表する技術流通市場の契約件数があります。このデータは、科学技術統計年鑑の集計されている中国各地域に設けられている技術取引所で成約した契約金額等が集計されています。これによると2008年には2000億人民元を超える取引が行われていたことが分かります。この金額は日本の技術流通の取引金額総額の推定値よりもはるかに大きい金額です。
ただしこの契約は、知的財産権が直接対価となっている取引ばかりではなく、ノウハウや共同研究、コンサルティングなどの対価も含まれています。知的財産権に関する取引がここにどのように寄与しているのかは明らかありません。さらにはここで集計された金額は、政府が管理している技術流通市場を経由したものに限られるため、実際は企業同士の直接取引の傾向は把握できません。
これとは別の統計として、中国の国家知的財産局による国内のライセンス契約の登録制度(専利実施許可合同備案)が2002年より施行されていて、この登録内容の一部が公開されています。これは現在の中国特許法実施細則に定められた制度で、登録を行うことで、ライセンサーと第三者とのライセンス契約に対する効力が生まれるため、中国でのライセンス契約は基本的には登録がなされていると考えられます。公開されている項目については年度ごとに多少変化がありますが、2009年では、専利番号、発明の名称、ライセンサー(譲渡人)、ライセンシー(譲受人)、契約登録番号、ライセンス契約の種類(独占か非独占化)などが公開されています(専利には特許、実用新案、意匠が含まれます)
このデータ自身は大変興味深いもので、たとえばCD,DVDなどの技術の活発なライセンス活動で知られるフィリップスを例にとると、2008年度では23件のライセンスが登録されています。これらのライセンス契約に含まれる特許件数は361件で、江西省、江蘇省、山東省、天津市、福建省、広東省、浙江省、七つの沿海地域の企業にライセンスが行われていますが、このうち4件が外資系企業で19件が中国企業であることが分かり、これらのライセンス契約は全てが非独占契約である、というようなことが読み取れるデータです。世界的にみてこのようなライセンス契約内容が公表されている例は見当たりません。
さてそのライセンス契約件数の推移ですが、図に示すように件数自身はまだ数千件ですが、2008年から急増していることが分かります。外資系企業による取引も少なくないですが、ライセンシーの3分の2は中国企業でした。そして驚いたことにライセンサーのおよそ4分の3は中国人個人帰属の特許であったことです。そのケースでは日本でいう専用実施権登録に類似する独占ライセンスを行っていました。これはいったいどういうことでしょうか。中国では何千人も個人発明家がいて企業にライセンスをしているのでしょうか。
我々が調査したところこれらのライセンサーに名前が出てくる個人のほとんどが、ライセンシー企業の経営者であることが分かりました。つまり個人名義で保有していた特許を、経営している企業に移し替えているのです。この件数が2008年から急増しているということになります。何故こんなに多くの経営者が個人で特許出願をしているのか、そして2008年以降、何故自分の経営する企業へのライセンスが急増しているのかは、特許の急増にも関係する現象の一つのようです。
中国の「万里の長城知財戦略」に迫るため、このことの背景などについては次回さらに報告を続けます。
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