第1回「アジア・新興国の2010年:知識社会の覇者を臨む知財戦略」


 90年代から長い間特許出願数No1は日本への出願でした。しかし2006年に米国への出願が日本を抜き1位となりました。そして最近では中国特許庁への出願をはじめ新興国とアジアでの出願が急増しています。中国への出願は現在米国、日本に次いでNo.3ですが、試みに中国、韓国、インドの三か国への出願を合計すると、既に2008年には米国への出願をも凌駕する数になっていたことが分かります(図)。中国、インドと同様、新興国といわれるブラジルなどでは、特許出願数の増加はそれほど目立たないのに比べて、アジア地域新興国への特許出願は目を見張る増加を遂げています1)。


 韓国での特許出願が目立ち始めたのは90年代の後半、中国での出願は2004年くらいから顕著になりました。後にJournal of Development Economicsに論文が掲載されたAlbert Guangzhou HuyとGary H. Jeerson 2)が、"A Great Wall of Patents: What is behind China's recent patent explosion? " 「万里の長城特許:最近の特許の急増の背景」のWorking Paper(正式に学術誌に掲載される前の論文) が著されたのは2005年のことです。このような中国の特許出願の勢いは止まらず、最近ますます加速しています。中国の場合、これの出願に占める中国系企業の比率が上昇していることや、特許ライセンス件数のデータでも、最近になって異様な増加が観察されており、国の知的財産活動全体が活発化していることが分かっています。中国の知財ということでは、既に意匠出願数、商標出願数はダントツ世界一になっていますが、技術ベースのイノベーションに最もインパクトがある特許技術全般のこのような活発化は世界中から注目されており、このトレンドをとらえて、2010年10月6日にThomson Reutersから発表された中国の知的財産の分析レポートのタイトルは"China Poised to become Global Innovation Leader" 「中国はグローバルなイノベーションリーダーへの道を歩み始めた」というものでした3)。この「イノベーションリーダーを伺う中国」という表現は、実は英語で発信されている情報では、特に2010年に入ってからかなり頻繁に目にするようになっています。そこでは10年後20年後の知識社会の覇権をだれが担うのかという展望を背景にしたものであると思います。


 日中関係は政治外交面での波があり、中国に関する見方も常にそういう影響を受けてきました。しかし近年の中国の科学技術力は目覚ましい発展を遂げつつあるという評価は、ここ数年かなり定着しています。そこではインプットとしての科学技術への投資が将来の競争力につながる可能性として表現されていることが多いようです。しかし英語で発信されている情報で目にするものでは、その国の知財のデータを現実にイノベーションに寄与する要素とみなしているものが多いことに気が付きます。これは単に"表現"が異なるというだけではなく、同じ現象について、一歩踏み込んで解釈している結果のように思えてなりません。



図 各国特許庁への特許出願件数と、韓国、中国、インドを合計した出願数
(WIPO statistics より)


 新興国・アジア諸国の企業や政府の知財に関するデータを調査し、関係機関のインタビューをするなかで、今、私が注目しているポイントが3つあります。第1のポイントはここで述べたような知財やイノベーションに関する統計データの異様な変化や、突出した事例です。新興国の知財データに関しては、アセアン諸国では整備されていないことも多く、また整備されて公開とされていても、実際は収集が難しいことも少なくないのです。研究者にとってはとても興味深いデータですが、正確なものを集めるのはそれほど簡単ではありません。


 そして第2のポイントは、これらの新興国・アジアの国々の知財に関する変化が、多くの場合その国のイノベーション政策と直接的な関係があることです。たとえば中国の特許出願やライセンス取引の急増は、自主創新政策と言われるイノベーション政策による意図的な誘導で生じた現象です。他の新興国でも、その国の企業や組織の知財戦略において起きている現象は、その国のイノベーション政策の直接的反映である場合が多いのです。それぞれの国のイノベーション政策は、その国の実情や資源を考慮したものになりますから、各国で少しずつ相違しています。従って知財戦略も各国の特徴を備えたものになっています。


 そして注目している第三のポイントは、そのような新興国・アジアの国々の様々な変化に対して、他の国の企業や政府がいち早く反応しているという事実です。中国の技術移転市場の変化をみて、いち早くこの分野で中国政府との提携を結んだ国があります。またある国が中国特許庁にロビイングをしている内容は、既に中国が強力なプロパテントに転じる前提に備えている内容であると考えられます。中国だけではありません、ベトナムでもサウジアラビアでも、変化に対する反応のスピード、特にリーマンショック以降のこれらの国への反応は、日本は"決して俊敏でない"というのが私の印象です。


 もちろん早すぎる反応と行動にはリスクも伴います。政府間で提携などして、結局上手くいかないと後で大変困るはずです。なのに、どうしてこんなに俊敏に行動できるのでしょうか。そして日本はこのような際に俊敏な反応ができないことで、将来の競争力に影響を受けることはないのでしょうか。


 政府と企業活動の相互依存が極端に強い国に相対す側にも、企業と政府の密接した連携が必要になります。俊敏に反応するための「企業と政府が高度に連携したシステム」が十分機能しているのかどうか、という点で、日本には課題があるのではないかと思っています。これは現在の中国のようにカントリーリスクが顕在化すればするほど、ますます重要な課題であると思います。当然日本でもそういう施策や組織はあるので、十分できているはず、と私も考えていましたが、どうも実際はそううまく機能していないのではないかと思うことが多いのです。この原因は、政府側あるいは産業界のどちらかだけにあるのではなく、日本型意思決定システムなどに関係する構造的なものであるように思われます。


 これらの疑問は、今後議論されるこのシリーズの核となるテーマです。具体的な事例やデータを積み重ねながら考察を深めていきたいと思います。そのために、まずは知財に関して特徴的な現象が観察される、新興国およびアジアのいくつかの国を見ていくことにしましょう。新興国といってもいろいろな定義がありますが、アジア中心に発展を望む知財面で少し特色のある国というぐらいの意味合いで捉えて、中国、インド、韓国、ベトナム、サウジアラビア、南アフリカなどを予定しています。そしてこのレポートでは、必ず毎回その国で起きている具体的なデータかまたは事例を一つ以上示そうと思います。結構苦労して収集したデータや事例も含まれています。このデータや事例をもとにして、それをどう解釈するのか、その国のイノベーション政策とどう関係しているのか、それがどのような変化につながるのか、さらには世界の国や企業がそれをどう利用しようとするのか、という論点について、それぞれのデータや事例毎に考えていきたいと思います。


 さて、いよいよ出発です。次回は、この文中でも既にふれたフレーズを使って、中国のGreat Wall IP Strategy(万里の長城知財戦略)について議論をスタートします。貴重な時間を使って、この記事を読まれる皆様に何かのヒントになれば幸いです!



1)通常その国のイノベーション力を評価する場合は国内組織からの出願を比較するが、ここでは外国企業の出願も含めて各国特許庁への出願を集計してあるので、むしろ市場としての重要性の比較に近い。
2)Journal of Development Economics,Volume 90, Issue 1, September 2009, Pages 57-68
3)http://thomsonreuters.com/content/press_room/tlr/tlr_legal/626670


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