第45回「これからの七夕」の巻


 梅雨明け後の暑さから一転、秋を思わせるような先週末の朝、平日同様に霞ヶ関駅に降り立ちました。幸い休日出勤ではなく、すがすがしい日比谷公園を突っ切って、お濠端にある第一生命本社ビルへ。お目当ては、特別公開のマッカーサー記念室です。新聞情報では10時半から見学開始で先着200名と書かれてましたが、9時半に到着した際には既に70名ほどの行列ができていました。予定を変更(?)して程なく見学が開始され、私は10時半からの見学グループに割り当てられたので、30分ほど、ロビーの展示やビルの外観、さらには周辺の街区などを見て回りました。この第一生命本社ビルは、昭和13年竣工の建物で、国会議事堂、東京駅とともに日本三大建築と言われたのだそうです。私は、日本三景だとか、三大○○とか称されるものを全て見たくなる質でして、まず、これで日本三大建築の全てに足を踏み入れることができたということに自己満足。


 10時半になり、エレベータで6階まで上がって、いよいよ記念室へ。入室した瞬間の第一印象は、“意外とこじんまりしている”でした。何と言っても、終戦からの6年間、絶大な権限を持っていたGHQトップの執務室なので、もっと広いスペースかと思っていたのですが、木(アメリカ産のくるみ)の壁、寄木細工の床の印象と相まって、好ましい雰囲気に思えました。部屋の中央には、マッカーサーが用いていた机と椅子。机には引き出しが無く、案内冊子によると、「何事も即断即決するためこの机を愛用」していた由。椅子は、元々緑の革製だったようですが、座面は色がすっかり剥落していました。案内の方によると、GHQから返還後、多くの来訪客が記念にと座ったための剥落だそうで、かつて米国でKFCの創業地に行った際、創始者カーネル・サンダース氏の椅子に座って悦に入った自分を思い出しながら笑ってしまいました。


 執務室の横には、マッカーサーのプライベートルームが続いていまして、現在は第一生命の史料展示室になっていました。実は、予想と違っていたのは、これらのマッカーサーが用いていた部屋には、南側しか窓がないということでした。私は何となく、GHQのトップの部屋からは皇居が見渡せるようになっていたのではないか、そして、マッカーサーは、皇居を眺めながら、日本の戦後のあり方がどうあるべきかを日々考えていたのではないか、というふうに想像していたのですが、現実は、これらの部屋からは皇居を臨めないつくりになっていました。案内の方の説明を聞いて得心しましたが、この部屋は元々第一生命の社長室だったのだそうで、当然にして、社長室から皇居を見下ろすような形で窓を設けることは回避されていたのだそうです。


 執務室の四隅には、それぞれ、マッカーサーの胸像、彼が愛誦していたサミュエル・ウルマンの青春という詩、マッカーサーの顔をあしらった米国切手の張られた手紙等、そして、マッカーサー一家のレリーフが置かれていました。このレリーフは、ある日系2世の女性が、この記念室のことを報じたTV番組を米国で見た際、マッカーサー夫人が「このレリーフは日本で保管されるべき。」と語っていたことを思い出して、寄贈されたものだそうです。中央にマッカーサー、左下に夫人、右下に息子のそれぞれの横顔という構図で、「Long lasting peace to the Government and People of Japan」という言葉が刻まれていました。

 多くのことを学べた今回の特別公開、60年前の七夕の日にGHQから返還されたことを記念してのものであったようです。これまでの七夕は、牽牛と織姫が出会えますようにと思いながら、身近なお願い事をする習慣でしたが、これからの七夕は、併せて、「Long lasting peace を世界中の人々へ 」とお願いするようにしたいと思います。



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