第26回 「八月の想い」の巻


 梅雨明けからこちら、連日、猛暑です。七月後半の関東は、記録に残っている中では最も暑かったとかいう報道に接し、自分の身体の暑さに対する抵抗力の減退のみではなかったのだなと慰めたりしています。ただ、八月に入ってからは、日中の猛暑は相変わらずですが、朝あるいは夕刻以降にやや涼やかな風を感じるようになってきました。"秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる"という和歌を思い出します。


 例年、今頃、具体的には八月六日から八月十五日にかけて、私は日本にいることを強く意識します。六日の朝、広島の平和記念式典があり、八日頃に立秋と高校野球の開幕が来て、九日に長崎の平和記念式典があり、十日過ぎ頃からお盆の帰省のニュースが始まり、十五日の終戦記念日を迎えるという十日間です。前回のコラムで書きましたように、小五の時、父に連れられて広島の平和記念資料館を訪れたのが、将来、日本の平和裡の発展に関わる公的な仕事に就きたいと思うようになったきっかけでした。その時のことを思い返し、初心に還る十日間でもあります。


 八月に日本にいなかったのは、米国留学とカナダ駐在の際の計四回。このときは、上記の初心に還ることが全くできませんでした。欧州における戦争終結ということで五月はそれなりに報道されたりしますが、八月については、私が初心に還る契機となってくれるような報道はありませんでした。ただ、米国留学中に、あえて米国人教授による近代日本史を履修した際に、ある文献を読む貴重な経験をしました。それは、日本での本土決戦要員の米国人元兵士が書いた"God save us by the bomb"というタイトルの文献だったと記憶します。要するに、原爆投下のおかげで日本が降伏し、日本での本土決戦が無くなって自分たちは助けられたことを神に感謝するという内容でした。こういう見方が原爆投下について行われているのかと心底驚いたのを鮮明に思い出します。その米国の大使が、広島の平和記念式典に初めて参列された本年八月六日は、とても意義深い一歩が記された日であったと思います。


 甲子園で戦っている故郷のチームを応援しつつ、一九四五年に思いを馳せるという日本の八月は、とても大切だと思います。高校野球放送に寄せられる視聴者の声を聞いていると、みな自らの故郷への想い、青春時代への想いを重ねながら、炎天下の中、投げ・打ち・走り・守る球児を応援されているように思います。同じように、一九四五年を想い、それから日本の復興のために働いて来られた祖父や父の代の頑張りを想い、それらの想いを重ねながら、自らを奮い立たせる八月とし続けてゆきたいと思います。心頭を滅却すれば火もまた涼し。さて、十分水分を補給して、炎天下に出かけてゆくとしますか。



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