第24回 「市ヶ谷にて」の巻


 先日、防衛省敷地内にある市ヶ谷記念館という建物を訪れる機会がありました。これは、昭和の時代に陸軍士官学校本部として建てられた建物を、平成における当時の防衛庁の六本木からの移転に際し、移築して作られたものです。戦時中には、陸軍省が置かれ、戦後は米軍に接収された後、昭和34年に返還され、翌年からは、陸上自衛隊東部方面総監部として用いられてきた建物で、米軍接収時には、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷として使用されたという歴史を持っています。


 最初に案内されたのは、まさにその東京裁判の法廷として用いられた大講堂。黒々とした荘重というのが第一印象。床は、大講堂後部の入り口から緩やかな下り傾斜が付けられていますが、これは、戦前、背丈の高い順に整列していたので、後ろに並ぶことになる背の低い者でも、正面演壇に立たれる方々を拝顔できるようにするための工夫であったようです。ちなみに、正面演壇は二段構成になっており、より高い方の壇には玉座が設けられていて、天皇は専用の階段を使って上がられていた由であり、また建物左右の側面は、その延長線が玉座のところで交わるように設計されていたとのことでした。きっと陸軍の昭和天皇への忠誠を象徴する建物だったのでしょう。それゆえにこそ、東京裁判の法廷に用いられることにもなったのでしょうか。大講堂を法廷に衣替えするに当たっては、ニュルンベルク法廷の様式が持ち込まれたという説明を伺いつつ、東京裁判の法廷の映像を拝見したところ、GWに訪ねたドク・ツェントルム(第20回"歴史を学ぶ"を御参照下さい)で見たニュルンベルク法廷の映像とそっくりという印象を受けました。東京裁判の法廷写真は、これまで何度も目にしてきましたが、まさにその現場で拝見していると、厳かな感じと身震いするような感じとが混ざり合わさった感覚に襲われました。


 2階に上がって、旧陸軍大臣室へ。ここは、米軍からの返還後は、陸上自衛隊東部方面総監室となっていた訳ですが、昭和45年11月25日に三島由紀夫が割腹自殺をした場所です。3つある縦長の窓のうち、一番左にある窓を開けてバルコニー(御説明によると、バルコニーとして作られたものではなく、車寄せ上部の覆いなのだそうです。)に出て、召集させた自衛官を前に演説し、その後、総監室に戻って自刃。総監室の異変を感じて入ってこようとした幕僚たちに斬りつけた際の刃跡がドアに残っていました。当日御一緒した先輩は、「駒場の1年生の時で、三島由紀夫の首の写真には、本当に衝撃を受けた。」と仰っていましたが、私は、当時8歳で、この事件のことは何も覚えておらず、昭和45年、1970年というと、大阪万博というのが私の記憶です。あれから40年経ち、今や防衛庁は省に格上げになり、自衛隊もPKOはじめ活躍の舞台は広がりましたが、我々日本国民が国家安全保障問題に向き合う真剣度は、どのくらい上がってきているのでしょうか?


 私は、自衛隊という言葉に触れる度に、杉山隆男著「兵士に聞け」に出てくる、防衛大学校卒業式での校長式辞の話を思い出します。その校長は、「国民の自衛隊に対する理解、認識は十分ではありません。」と言った後、防大生みの親である吉田茂元首相が防大生に語った言葉を以下のように紹介します。「君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉をかえれば、君たちが"日陰者"であるときの方が、国民や日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい。・・・諸君の先輩は、この言葉に心を打たれ、自らを励まし、逆風をはねのけながら、ひそやかな誇りを持ち、報われることの少ない自衛官としての道を歩んだのであります。」これは、防衛大学校設立から40年、平成5年の卒業式でのことですが、それからさらに20年近くの歳月が経ち、現在ではどのような式辞を受け、どのような思いを胸に、防衛大学校生は卒業してゆくのでしょうか。



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