第30回 社会人博士の取り方


 前回、出口俊一オーナーの呼びかけで大きなテーマについて次々と記事が寄せられ、さすがDND、皆さん深い議論をしているなと思いました。今回は、ちょっと気を抜けるよう、少し穏やかな話題を提供したいと思います。社会人博士のすすめです。


「Ph. D.」

 旧知の友人に久しぶりに逢った時、名刺を渡すと、「博士(工学)?いつ取ったんだい?」と聞かれます。小さい声で、「2年前、4年かかったよ。」と答えます。


 筆者が東京大学大学院工学系研究科環境海洋工学専攻後期博士課程に入学したのは、2004年10月 のことでした。きっかけは、経済産業省同期の平田竹男現早稲田大学教授 から、「学位を取りたいのだが良い教授を知らないか」とのご依頼があったことです。平田君には、当時、社会人学生を受け入れ、また友人の何人かが門下にいた松島克守東京大学工学系研究科教授を紹介することにしましたが、平田君の考えに触発され、昔の感慨がよみがえってきたのです。


 学位についてはいくつかの思いがありました。筆者は、課長補佐時代バイオ産業の担当をしていた頃に、OECD(パリ)のバイオテクノロジー安全性委員会や、国連のもとでの生物多様性条約会議に交渉官として出席していました。その時の会議の交渉相手は、各国の官僚とそのアドバイザーの科学者でした。彼ら、特に米国代表団の官僚のほとんどがPh. D.か、さもなければ弁護士出身でした。筆者は日本の技術系官僚に多い修士卒ですが、これらの政府間交渉ではマスターでは肩書きとしては相手にされません。米国代表団において科学的知見から意見を述べるのはPh.D.である農務省や厚生省などの官僚で、OECDの委員会ではその代表が元FDA長官のDr. Youngでした。彼らは、科学者であってかつ米国政府の代表として、先端の科学的根拠に裏付けられた主張をしていきます 。例えば、生物多様性条約交渉の当時の最大の論点のひとつは、遺伝子組換え生物(GMO)の安全性の確保でしたが、彼らは科学者の世界での国際的なコンセンサスのある考え方に基づきGMOの安全性に関して適切なレベルの規制となるよう条文を修正していきます。日本政府は、同様に日本の科学界のコンセンサスを元に、米国と同じ立場をとって交渉を進めていました 。しかし、こういう交渉過程において、科学的思考と経験を元に発言するPh.D.に対しては、我々マスター出は技術系出身ではありますが、それをリードするほどの発言力はなかったのです。こうしたこともあり、日本政府は、OECDの会議ではサイエンスアドバイザーとして分子生物学の権威で、日本の組換えDNA実験指針の策定を主導していただいた、故内田久雄東京大学名誉教授に出席をお願いし、委員会の副議長をしていただいて、何とか日本の存在感を示しました。内田久雄先生は2007年7月にご逝去されました。先生のご冥福を心よりお祈りします。


 こうした補佐時代の経験が心の底流にありましたが、しばらく忘れていたところ、大学連携推進課長になった時に、ポスドク対策や大学改革問題にも関与した関係で、日本の博士課程に関する興味が再燃していました。でも、簡単に言えばPh. D.への単純な憧れだったのかもしれません。


「大学院の受験」

 博士課程に入学するための受験をするには、まず指導していただく教官の同意を得る必要があります。大学受験の時には学部や学科を選びますが、博士課程では専攻と教授を選ぶ(選ばれるというのが正確な表現でしょうか)のです。当時、社会人を受け入れる大学はいくつかありました。筆者はベンチャーや産業クラスターの研究をもとに日本にもシリコンバレーを作りたいと考えていたので、技術経営を専攻できる博士課程を持つ大学院が適当でした。その中で、東京大学には技術経営専攻はまだできていませんでしたが、工学研究科は社会人を受け入れる規定が整備されていて、また松島克守先生の元では技術経営の考え方に沿って、そうした研究ができることがわかっていました。これは筆者にとっても幸運でした。そして、先生の厳しい選考を経て同意を得、生まれて初めて東大を受験することになるのです。もっとも、当時の東大工学系研究科博士課程の社会人受験には筆記試験はなく、書類選考と口答試問でしたが 。


「職場の許諾と家族の支援」

 東大の場合、社会人は勤め先の合意を得た旨を受験の際に示すことが求められますので、筆者も当時の上司にお願いして、許諾していただきました。国家公務員は職務専念義務がありますので、受験に際しては法令の定める範囲の中という制約つきで、大学に対して学業にはげむ旨を約束することが必要です。当時の上司には、笑顔で「がんばれよ」といっていただきました。その頃、よく仕事をしていたので?上司も快く許してくれたのだと思います。


 もう一つの難関は家族の支援の取り付けです。国立大学といっても、最近の学費はばかにならず、博士課程は学部と同じく年間53万円強です 。これは有名私立大学(文系)とは20万円ほどしか差がありません。筆者が大学に入学した頃は3万6千円ほどからだんだんあがってきましたが、仕送りしてくれた母親には申し訳ありませんが学費を払っているという意識はほとんどありませんでした。今の学費は大金です。これを少なくとも3年間(筆者は4年間、200万円以上も。。。)払うことは家族の同意がなければ到底実現できません。幸い、かみさんも息子達も40代半ばのおじさんの暴挙にあきれつつも快く許してくれました。いまでも感謝しています。


「単位の取得」

 さて、晴れてその年の10月に平田竹男君と一緒に東大の博士課程学生になりましたが、研究計画は一応提出してあるものの、具体的な研究の方法もよくわからず、とりあえず、論文以外に修了に必要な単位の取得のため、可能な日には仕事を定時に切り上げて大学の授業に出席することをはじめました。この点、役所から近い本郷という場所はとても便利でした。当時東大工学系研究科には、技術経営専攻は未設だったものの、聴講生にも公開するMOT コースなるものがあり、夜間でも講義が受けられました。筆者は、平田君や同期の社会人学生、MOTに飢えた東大現役の若者と一緒に、そうした講義に出席し、半年で必要な単位を取得しました。その当時、現立命館大学MOT大学院の玄場公規教授の技術経営論や、初めて学ぶ金融工学の講義などが印象に残っていますが、MOT講義の中には、元大企業経営者による経験談ばかりのMOTとはとても言えない講義も点在していて、技術経営教育の難しさを学生の立場で感じたものでした。


「定期的な学会発表」

 さて、単位を取得してしまえば、後は論文作成です。筆者は、松島先生のすすめに従って、学会への口頭発表をマイル・ストーンにして研究を進めていきました。具体的には、松島先生が会長をなされていたビジネスモデル学会や日本知財学会、研究技術計画学会などに、半年ごとに口頭発表をしながら研究計画を進めていったのです。何せ筆者は、論文といえば若いころに数編書いただけで、それ以外は学会誌に投稿といっても査読のない解説のようなものばかりでしたから、一から論文の書き方を勉強し直しました。その点、懇切に指導していただいた松島研究室の先生方には感謝しています。指導教官である松島先生には、メールでやりとりするわけにはいきませんので、個別にアポイントをとってご指導いただきますが、当方の業務もあり先生もお忙しくてなかなか時間がとれませんでしたので、学会での発表を聞いていただいて意見を窺うのも貴重な機会でした。学会は休日に開催されるので、業務に支障はありません。


「論文の投稿」

 研究室の先生方の指導を受けながら、「クラスターと大学」をテーマにした最初の投稿論文を仕上げました。知財学会誌に投稿したところ、査読の先生から結構手厳しい指摘を受けて消沈しましたが、研究室の先生方に相談したところ、さすが何本も書いている梶川裕矢先生からは「致命的な指摘はない。たいしたことはない。ちゃんと指摘への答えを返せば大丈夫。」といわれ、気を取り直して、回答を作り、適宜文章を直したり追加したりして返送したところ、数ヵ月後に採用していただきました。筆者の論文が大部でしたので知財学会誌のその号が少々分厚くなってしまったことを申し訳なく思ったりしました。これが地域クラスターと大学のネットワーク機能を分析したなかなかの自信の論文でしたので、それを元にしてそろそろ学位論文を準備しようかと先生方に相談しました。東大工学系研究科では、投稿論文数の規定は特にありませんが、共著を含めると結構な数になっていたこともあり、そろそろかなと思ったのです。ところが、松島先生をはじめ、指導教官連から「全く足りない」「別の観点からの研究が必要」と指摘されたときは、もう3年の予定があと1年に迫っていた頃でしたので、かなり動揺しました。しかしながら、そこで示唆された「イノベーションの学術俯瞰」というテーマこそ、今の筆者を形成する主軸の一つになっていったことは、結果としては実に幸運でした。


以下、次号に続きます。



記事一覧へ