第29回 科学と技術とイノベーションその3−曖昧な科学と技術の意味


 日本学術会議が、科学と技術の峻別について、一石を投じました。今回は、出口俊一オーナーのご希望により、科学→技術→イノベーションの三層モデルの要素である、「科学」、「技術」の意味をはじめとする言葉の意味と内容について考察します。


「科学と技術」

 日本では、「科学技術」という言葉が普遍的に使われていますが、これは、科学・技術なのか、科学技術なのか判然としません。総合「科学技術」会議も、議題によって、科学政策を議論しているのか、技術政策を議論しているのか、科学と技術を総体で扱っているのか、その場ではっきり分けて考えているかというと、そんなことはないように見えます(※@)。英文にしてみるとScience and Technologyと明快に二つに並列して考えられていますが、日本語になるととたんに不分明になります。日本語の特質といえるのかもしれません。


 このあたりは、10年ほど前の旧科学技術庁の研究会でも議論になったらしく、「21世紀の社会と科学技術を考える懇談会」のホームページに『「科学」と「技術」、「科学技術」について』という資料があります。そこでは、科学と技術を区別した定義を掲げた上で、『3.科学技術(科学と技術の一体化の進行)』として、『 科学と技術は、近代に至るまで、長らく基本的には別個の活動として、互いに相交わることなく活動が営まれてきたとされている。 しかし、19世紀後半の化学工業や電気工業を嚆矢として、20世紀に入ると、科学的原理を技術に「応用」して、軍事や産業上の目的に役立てようとする考えが有力となり、・・・・原子爆弾から遺伝子組換作物まで、様々なものが開発されてきた。 ・・・ こうした一種の目的志向型の「研究開発」の増大は、また、そのこと自体が、辞書の定義に見るような、科学と技術を、純粋な「自然の法則性の解明」と、その現実への「応用」として区別することにそぐわないような状況を生みだしており、また、科学の活動も、高度な技術を用いた実験・観測手段への依存を益々高めてきているなど、総じて、現在では、かつてのように科学と技術を截然と区別することが困難になってきていると言われている。』と説明している。こうして、政策上分けて議論すべき科学と技術が混然一体となって文、やがて創設される文部科学省に引き継がれていったのかもしれません。旧「科学技術」庁として持って生まれた宿命という気がしてなりません。

 なお、旧科学技術庁時代に、議員立法で制定された科学技術基本法には、「科学技術(人文科学のみに係るものを除く。以下同じ。)の振興に関する施策」とあり、科学技術を、純粋な人文科学を排除した狭義に定義しています。科学と技術を区別した記述は特に見あたりません(※A)。


「科学者と技術者」

 一方、科学と技術を担う、「科学者」と「技術者」は、日本では、理学部卒と工学部卒との違いに相関して対比されているようですが、これは適切でしょうか。大学の学者と議論していると、「彼は理学部だから」「私は工学部出身なので」という言い方を聞くことがあります。理学は、純粋科学で、工学は応用科学であり、純粋科学は理詰めで研究を進めるが、応用科学は現実世界を重視して、理論が後からついてくる場合があることは事実です。一方で、理学部出身者は理論にこだわると言うことでしょう。また、この純粋か応用かとの理解であれば、いずれにしろ、理学部出身も工学部出身も学者であれば「科学者」であって技術者ではありません。これは国際的にも正しい認識です。とすれば、技術者とは誰のことでしょうか。科学者ではない技術者といえば、産業の現場にいる技術者ということになります。技術は経済学の用語でもあり、財を生ずる元にもなります。科学はかならずしもそうではありません。技術及び技術者は、その背後に産業という概念含んでいます。医学で言えば、医学そのものは科学ですが、医療にかかる技術は医学を元にした技術、ということと考えるとわかりやすいでしょうか。


「基礎研究と応用研究」

 かつて、ある与党議員が野党時代に、科学技術に関係する全省及び独立行政法人を集めてこう問うたことがあります。「あなた方はそれぞれ基礎研究(政策)をやっているか否か?」 各省、各独法は、驚くべきことに次のように明確に答えました。すなわち、「我が省、我が機構は、(大学のような)基礎研究は進めておりません、やっていることは、全て特定の目的を持つ応用研究です。」と。この中には、国立遺伝研を擁する厚生労働省や、情報通信研究機構を擁する総務省も入っておられたようです。


 そう答えなかったのは、文部科学省、理研など同省所管の独法と沖縄大学院大学事務局、それにNEDO(経済産業省)でした。NEDOは、「当方は産業技術の研究開発を進めていますので、これは応用研究として実施していますが、それが基礎研究でないといえるかどうかは難しいところです、研究開発を進めていくうちに、基礎にさかのぼってノーベル賞級の研究をしないと、開発が出来ないことも最近出てきているのです、したがって基礎研究をやっているかと聞かれれば、ハイと答えます。」としました。おかげ様で、その後に同議員から詳細な質問について回答票を求められました。他の「否」、と答えた省庁・機関はおとがめなしでした。同議員が何故そういう質問をしたのか、その後のご指示がないのでよくわかりません。政府は基礎研究を支援に集中すべきでありそれ以外の研究開発は民間に委ねるべきである、という主張かもしれません。しかし、NEDOが主張したように、この分け方は現在の科学と技術の状況を踏まえると、あまり意味がないといえます。これは、10年前の科学技術を考える懇談会と同じ認識に見えますが、政策ツールの議論の場で混同するとひどいことになります。NEDOは、政策としてはあくまで応用研究を目的として行っているのです。


「技術と技術者と技術政策」

 省庁組織というある一定の(狭い)概念で見ると(※B)、例えば各省の設置法には、「学術」、「科学技術」、「産業技術」という言葉があります。それぞれ明確に分離されているわけではありませんが、大まかに科学技術を上流(基礎)から下流(応用・開発)に分けているとするのが常識的な見方でしょう。しかし、上述の様に、基礎科学と応用科学、さらに科学と技術の概念の分離はますます不明確です。


 一方、科学と技術を分けてしまえば(そこには基礎研究と応用研究のように分離が難しいところもありますが、「えいやっ」としてしまえば)その政策の話は比較的わかりやすくなります。

 技術に関する政策については、ほぼ産業政策の一環であって、各現業官庁が担当すればよいという整理になります。例えば、かつて筆者が所属した産業技術課は、産業政策局に存在しました。このとき、技術政策の支援を受ける対象は、技術者ばかりかというとそうでもありません。上述のように、技術を生み出す科学について研究が必要な場合も多くなっているからです。

 ここで、技術者への扱いが不当になる原因のひとつがあります。技術者(場合に依っては科学者も)が人々から不当に扱われているのは、そんなに昔からの話ではありません。明治時代は、科学者などほとんどおらず、国が目指したのが技術者の養成です。そこには技術者だけではなく、職工(職能者、技能者)の養成も含まれています。菅直人総理(※C)の出身校は技術者養成を旨とする東京工業大学ですが、同学はもともと東京職工学校として蔵前に創設されていました。(そこでは、技術者つまり、職工長や工業教員の養成の一環として、現場の技能者の再教育も行っていたと聞いたことがあります(※D)。)いずれにしろ、明治の先達者たちは、せっせと工部大学校から帝大工学部を設立し、東京職工学校を整備するなど、優秀な教育者と技術者を育てることで殖産興業を達成しようとしました。その時の帝大生の一部は、「末は博士か大臣か」の博士に相当したのでしょう。また、「煙突あるところ蔵前あり」といわれたほど、東京工業大学の卒業生が現場で活躍したのです。


 一方、戦後、技術及び技術者の重要性がさらに強く認識されるにつれ、世界に類を見ない勢いで工学部の学生が増加し、高度成長を下支えしました。次々と良品を安価で生産することに邁進し、それに技術者が貢献していきました。しかし皮肉なことに、結果的に「掃いて捨てる」技術者の大量採用、処遇悪化につながっていったように見えます。(筆者の就職時期である昭和50年代後半は、大手電機メーカーなどは同期入社技術系1000人でした。彼らのうち、どのくらいがその後ちゃんと処遇されていたのでしょうか。極めて疑問です。)その後、非連続イノベーションモデルが喝破したように、技術で勝って経営で負けることが顕在化し、技術者は自信を喪失していきます。これが、現在の工学部離れ、理科離れの根本的な原因の一つです。

 現在の状況は、反省を込めて言えば、国栄えて技術者滅びる、技術者滅びて国衰退する、といえないでしょうか。ちょっとペシミスティックにすぎましたか。

 前向きに言えば、だからこそ、技術経営の教育が必要なのです。わかりますね?東京MOT会の皆さん。


「最後に」

 省庁の設置法や法律を元に議論をすると、言葉の定義が精密であるがゆえにわざと不分明にしているところがあり、あまり適切な答えがでないかもしれません。また、欧米でもScientistとEngineerは分けて考えられていますが、それはその人が何で食べているか、というところに起因するのかもしれません。こうした考えは日本的ではないといえるでしょう。

 更に日本的な例題に、「文系」と「理系」があります。これは法学と工学、経営学と医学などを修めたダブルディグリーの人はいくらでもいる米国ではほとんど意味のない議論です。MBAへ進学する人の多くは理学部、工学部、医学部出身です。

 いずれにしろ、科学と技術の違いを論ずるよりは、科学政策と技術政策の違いを論ずる方が遙かに有益であり、そうしたことをやってこなかった日本の科学技術政策の矛盾が最近露呈している様な気がします。

 日本学術会議の提言は、こうしたことを背景に、国力の基礎となる「科学」振興の在り方に強い危機感を示したものなのでしょう。

 なお、技術者への不当な扱いは致命的であり、それが工学部・工学系大学院の増員という一見正しい政策から生まれたとすると、それは不幸なことです。シリコンバレーでは、科学者、技術者のみが尊敬され、それ以外の法律屋(弁護士)、金融屋(キャピタリスト)は必要「悪」としてとらえられていると、現地のベンチャーキャピタリストに聞いたことがあります。こうした文化を根付かせることにより、日本のシリコンバレーが一歩近づくのではないかと思っています。




i.総合科学技術会議の有識者議員は、太宗が大学の先生ですから、どちらかといえば、「科学」寄りかもしれません。
ii.第9条第2項第1号に「研究開発(基礎研研究開発(基礎研究、応用研究及び開発研究をいい、技術の開発を含む。以下同じ。)」という記述はあります。
B.文部科学省には、「科学」と名のつく局は、科学技術・学術政策局しかありません。他の旧科学技術庁の局は、研究振興局と研究開発局であり、いずれも「科学技術に関する研究と開発」にかかる業務を行っています。ここで、科学技術と学術という用語は並立していますが、そもそも明確に分離して定義されている言葉ではないように見えます。文部科学省設置法では、科学(技術)と研究(開発)は独立した概念ではなく、科学技術の研究開発、として内容と行為という整理になっています。これに従えば、科学者も技術者も研究者であるということになります。
C.本稿は2010年8月末に書かれています。
D.亡くなった祖母から、祖父が一時期「蔵前」に通っていたことがあったと聞いたことがあります。祖父はその後、金属工場を継いで経営者になりました。



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