第82回 マスコミと神話


 少し前のことになりますが、ある土曜日の昼下がり、さる一般紙の新聞記者が、郊外にある我が家までわざわざ訪ねて来ました。役所を退官してから、新聞記者の取材を受けるのは、しかも自宅で取材を受けるのは初めてのことです。念のため申し上げておきますが、決して破廉恥な行状などに関することではありませんからね(笑)。ところで、取材の後でその新聞記者から聞いたところによると、彼は、それ以前にも何回か我が家に夜8時過ぎに来て、ドアホンを鳴らしていたのだそうです。しかし、そのときはちゃんと取材のための訪問である旨を伝えたにもかかわらず、妻が「○○新聞の・・・・」と聞いて新聞購読の勧誘と間違え、彼はそのたびに撃退されていた模様。妻の早とちりもはなはだしいものだと思いますが、どうも真相は、我が家の犬の鳴き声がうるさくて、ドアホンを通じた会話がまともに成立しなかったということのようです。ちょっとお気の毒でした。


 それほどまでに熱心に我が家まで通って、彼が取材したかったことは、2005年に策定された「原子力政策大綱」の審議プロセスに関することでした。「原子力政策大綱」とは、政府の原子力委員会が策定し、閣議決定を経て、わが国の原子力政策の基本方針となっているものです。現在、福島第一原子力発電所の事故を受けて、同大綱の見直しの議論が行われているので、この大綱のことは皆さんも、最近、新聞等でご覧になったことがあるでしょう。


 約8年前、私が内閣府で原子力委員会の事務局役を兼任していた当時、「原子力政策大綱」の策定に向けた議論が、専門家だけでなく原子力政策に関しさまざまな意見をお持ちの方々で構成される「新計画策定会議」で活発に行われていました(*1)。その中でも特にホットな議論が戦わされたテーマの一つが、核燃料サイクル政策のあり方に関することでした。核燃料サイクル政策については、今回の見直しの議論でも主要な検討テーマの一つになっていますが、当時も、そして今も、関心を集めた話題は核燃料サイクルに要するコストの問題でした。使用済みの核燃料再処理施設の建設には数兆円の資金がかかる上に、「あの危ない」プルトニウムを使用済み核燃料から取り出すような施設は日本には建設すべきではない、というのが反対の立場をとられる方々の主張です。そういった方々の意見は、使用済み核燃料は再処理をせず、そのまま廃棄すべき(これを「直接処分」方式といいます)。そのほうが、コスト的にも安いし、プルトニウムを取り出さないという点からも優れているというもの。


 2005年の「原子力政策大綱」の内容がとりまとめられるまでには、核燃料サイクル政策だけでも計18回、延べ45時間にわたる活発な議論が行われました。その結果、これまでどおり再処理する方式を継続することが妥当とされたのですが、我が家を訪ねてきた新聞記者の関心は、その際行われた使用済み核燃料の再処理コストと直接処分のコスト比較の審議プロセスにおいて、何か不明朗なことが行われたのではないかということにありました。


 原子力委員会の審議は、近藤 駿介委員長のリーダーシップの下、きわめてオープンに、かつ、フェアに行われています。審議資料は、もちろん全て公開。会議は毎回200〜300人の方が傍聴する中で行われます。また、反対意見をもつ方々が必要と言われれば、計算の根拠などはすべてオープンにし、場合によっては、一緒に分析作業を行うということもやっています。ですから、私が、承知している限り、審議のプロセスに何らやましいところはありません。


 彼は、当時の資料のコピーを持ってきて、使用済み核燃料を全量再処理するコストは1.6円/kWh、全量直接処分するコストは0.9〜1.1円/kWhで、直接処分のコストのほうが安いと試算されている。それにもかかわらず、同会議は、直接処分方式については、唐突に「政策変更コスト(*2) 」などという追加のコスト(0.9〜1.5円/kWh)を持ち込んで、そのコストを高く見せた(すなわち、直接処分方式は追加コストを合計すると1.8〜2.6円/kWhになる)のではないか、というのです。


 私は、実は、そのコスト試算の結果を良く覚えていませんでした。また、政策変更コストを導入することによって、再処理方式と直接処分方式のコスト面での優位性が逆転する結果となったということも、覚えていませんでした。大事な政策決定に関わる立場にいながら、そんな大事なことも覚えてないのか。だから役人は無責任なんだ、と言われそうですが、決してそうではありません。よく覚えていなかった理由を先に言えば、コスト比較の結果は、両方式間の優位性を判断する上での、ごく一部の要素に過ぎない問題だったからです。


 同会議では、使用済み核燃料を再処理する方式と直接処分をする方式の優位性の比較を、コスト面での比較(経済性)だけでなく、安全性、エネルギー・セキュリティ、環境適合性(放射性廃棄物の量、有害性等)など10の視点 から、詳細に、かつ、総合的に分析しました。これらの中で私が重要と思ったのは、エネルギー・セキュリティ、環境適合性の面での両方式の優位性の差です。(なお、もっとも重要な安全性の問題については、両方式とも同程度の安全性の確保が可能と評価されています。)経済性が大事でないと言うつもりはありませんが、コストの大小だけが重要なわけでもありません。程度問題ではありますが、単なるコストの大小で量れない価値や意義というものがあるはずです。


 改めて言うまでもなく、再処理を行って、使用済み核燃料から有用な核燃料を再び取り出す核燃料サイクルが完成すれば、日本は、将来にわたってそのエネルギー供給のかなりの部分を海外に依存することなく確保することが出来るようになります。エネルギーの安定供給の確保が、国家の大きな課題である日本にとっては、これは大変に重要なことです。このことが再処理による核燃料サイクルの構築を目指した大きな理由であり、また、再処理方式が直接処分方式と比べて明らかに大きな意義を有する点です。


 加えて、原子力エネルギーの重要な課題、放射性廃棄物の量やそのリスク管理に必要となる対策(これを同会議では「環境適合性」と呼びました)の点から見ても、再処理方式は、直接処分方式に比べて高レベル放射性廃棄物の量が30〜40%に減り、必要となる最終処分場の面積も1/2〜2/3になるとともに、1,000年後の高レベル放射性廃棄物の有害度は、8分の1、高速増殖炉核燃料サイクルが実現すれば30分の1にすることができると評価され、再処理方式の優れている点が明らかにされました。


 ですから、私がこの問題について記憶していたことは、再処理方式はエネルギー・セキュリティ、環境適合性の面で、直接処分方式に比べて優れており、再処理方式のコストが多少高くても、再処理方式の方が日本のエネルギー・セキュリティの確保、使用済み核燃料から発生する廃棄物の量、有害性の面で、コスト差を上回って余りある優位性があるということでした。


 さらに、新聞記者からは、「政策変更コスト」という視点が加味されたのは、不自然ではないか。再処理方式のコストを有利に見せるために恣意的に導入したのではないか、とも聞かれました。私自身は、同会議での審議を通じて、先にも述べたように政策変更コストがあろうがなかろうが、例え多少コストが高くても、再処理方式に優位性があると理解していたので、その質問を聞いて、そんな見方をする人もいるんだと改めて気がつかされたという思いでした。


 そこで、改めて政策変更という視点を持ち込むことの妥当性について考えてみましたが、言われるような不自然さは感じません。これまで核燃料サイクルを実現するためのさまざまな施策が進められてきたという事実を踏まえて考えるならば、その政策を変更するために必要となる投資や対策は当然にあるはずで、むしろ、そうしたことを考慮するのは当然ではないかと思います。まったくの更地で政策を考えることができる状況であるのならともかくとして、政策変更に伴って生ずる問題を考えなくて良いという発想がどうして出てくるのか。さらに言えば、政策変更コストなどは考慮すべきでないという人たちは、コストの問題としてはとらえることのできない、核燃料サイクル政策にこれまで協力してきた自治体や住民の方々のこれまでの歴史、生活の積み重ねについてはどのように考えるのか。それも捨象すべきというのでしょうか。この問題は、コストでは評価できないので、「政策変更コスト」ではカウントされていないものの、より重い問題です。


 取材を受けてしばらく経ち、こういった新聞記者との一連のやりとりを反すうしていたら、マスコミは、どうしてコスト比較といった分かりやすい論点にのみ光を当てて、単眼的で、やや低次元な議論をしたがるのだろうかと思いたくなるような新聞記事を、またぞろ目にすることになってしまいました。去る10月26日に新聞各紙は、原子力政策の抜本的見直しの一環で原子力委員会が行ったコスト試算に関する記事をいっせいに掲載しました。例えば朝日新聞は、「燃料再処理 かさむ費用」(10月26日付け朝刊3面)などという見出しを打ち、「使用済み核燃料の再処理は、そのまま地中に埋める直接処分の2倍だった」(同上)と書いています。


 もちろん、コストが重要な視点ではないと言うつもりもありませんが、これまで書いてきたように、政策の選択は、そのほかの重要な視点からの評価と合わせて、複眼的、総合的な観点から行うべきものです。また、このような記事を見ると、そもそも再処理方式においても高レベル放射性廃棄物の処理場所が見つかっていない(これはこれで、現在の原子力政策の大きな問題です)現状を見れば、より有害性が高く、その数倍に上る高レベル放射性廃棄物の量が発生する直接処分方式をとった場合の処分場所について、どのように考えるのかといった点を抜きにした記事の書き方にも大きな疑問を感じます。


 私自身は、現在、原子力政策を推進する立場にいるわけではありませんし、個人的には、これまでの原子力政策が全て妥当であったと思っているわけでもありません。高レベル放射性廃棄物の処分場所の問題、高速増殖炉研究開発の問題、そして福島第一原子力発電所の事故の反省に立てば何よりも重要な安全性確保の問題にも、まだまだ未解決の多くの重大な課題があるのは間違いのないところです。したがって、現状を無条件で是認するわけではないのですが、原子力政策には、これまでに積み重ねられた現実、そしてここにいたる重い経緯があります。これまでやってきたことは間違いなのだから、これまでのことを全て白紙に戻して、新たな考えで原子力政策を進めるなどということは、机上の議論であればともかく、現実的には出来ないことだし、また、やるべきことでもありません。


 原子力政策について、現実を踏まえつつ、複眼的な視点に立った国民的議論が今こそ必要な時に、そのアジェンダ・セッティングを担うべきマスコミが、こと原子力政策になると、何故、そういった役割を果たせないのか。ことここにいたっても、こういった問題提起しかできないマスコミの姿勢を見ると、マスコミは、単純な問題設定、二分法的な議論を展開することによって、原子力安全問題を始めとする原子力のさまざまな「神話」づくりに、結果的に加担してきた張本人の一員なのではないか、そして今回の事故を経てもなお、マスコミのそうした体質は変わっていないのではないかと思ってしまいます。



1) 原子力委員会が策定する、(原子力発電を含む)日本の原子力利用の基本方針は、2005年以前は「原子力の研究、開発及び利用に関する長期計画」(略して、「原子力長期計画」)と呼ばれていたので、委員会名も「新計画策定会議」とされていました。
2) 「政策変更コスト」としては、全量再処理方式から直接処分方式に政策が変更された場合に生ずるコストとして、六ヶ所村に建設された使用済み核燃料再処理施設を廃棄するコスト及び使用済み核燃料の処理が進まないことによって原子力発電所が停止せざるを得なくなることから、その代替電源(新規の火力発電所等)を整備するために必要となるコストが考慮されている。
3) 会議の報告書で用いられている用語で記せば、@安全の確保、Aエネルギー・セキュリティ、B環境適合性、C経済性、D核不拡散性、E技術成立性、F社会的受容性(立地困難性)、G選択肢の確保、H政策変更に伴う課題、I海外の動向の10の視点。

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