第71回 吉林省の産業事情(吉林省をあるく その3)


 まずは、下の写真をご覧下さい。これは、長春に本社をおく第一汽車集団(一汽)の本社ビルです。ちょっと重厚さに欠ける感じはしますが、すごいビルですね。第一汽車集団は、その傘下に28の企業をもち、世界の70カ国以上の地で活動、総資産1,100億元(約1兆4,300億円)、従業員数13.3万人の大企業です。第一汽車は中国最初の自動車メーカーで、1953年に設立されました。あの中国要人を乗せる「紅旗」を造っている会社といったら、より分かりやすいでしょうか。創業当初、旧ソ連からの支援を受けて中型トラックの生産から立ち上がった第一汽車集団は、その後、1991年にはフォルクス・ワーゲン(VW)、2002年にはトヨタ自動車と合弁企業を設立し、中国国内における両社ブランドの自動車の生産を担うようになります。そして、今や自社ブランドの自動車と合わせると年間100万台を超える自動車を販売する大自動車企業へと成長しました。


 本社ビルの道を挟んで反対側には、設立記念に書かれた毛沢東主席揮毫の石碑と創業当時の本社建屋を保存した記念公園が設けられています。石碑の背景に写っているレンガ造りの平屋の建物が創業当時の本社建屋。ここは、発展めざましい中国の自動車工業の発祥の地として、記念すべき場所です。


 本社ビルのある長春市の市街地から南西の方角、長春市域の約1/4を占める広大な地域は、経済技術開発区やハイテク産業開発区に指定され、政府の資金で道路や工業団地が整備されています。そこには第一汽車集団の自動車組立工場、傘下にある自動車部品企業が、外国資本との合弁企業を含め数多く立地し、自動車関連産業の一大集積地となっています。まるで長春市全体が一汽の街といっても過言ではないでしょう。長春市のみならず、吉林省にとって第一汽車集団の存在は地域の誇りであり、また、将来の経済発展の担い手としての期待の拠りどころでもあります。




 吉林市は長春から東に約100km、高速道路で1時間ほどのところに位置しています。都市部の人口200万人といいますから、これも大都市です。以前は吉林省の省都でした。(現在の省都は長春。)今回、吉林市をゆっくり見る時間はなかったので単なる印象にしか過ぎませんが、吉林市は大都市ながら、小奇麗な感じのする街です。街全体が松花江の川沿いに発達していて、街のどこからでも川と丘のようななだらかな山々が見えます。長春から同行してくれた中国人も、吉林市は夏涼しく、都市の大きさとしても手ごろで、最も住みたい町のひとつと言っていました。吉林市には、ケ小平の銅像の立つ広場があり、ケ小平の銅像が立つ広場があるのは、中国でも何故か吉林市だけだそうです。




 その吉林市の北東部の広大な地域を占めるのは、吉林石化です。その本社が写真のビル。道の端からではビルの全容が写らないほどの高層ビルです。吉林石化はその名のごとく石油化学企業で、石油精製の際に得られるナフサを原料に石油化学の基礎製品のエチレン、プロピレンを手始めとして、合成樹脂、合成ゴム原料、その他の有機化学品といった石油化学製品を生産しています。


 吉林石化の歴史は古く、日本で初めての石油化学コンビナートができた頃とほぼ同じ時期、1954年に建設が始まり1957年から稼動を開始しました。国有企業として発足したこの企業は、1978年からは吉林省の管理下におかれ、1994年には株式会社化、そして2006年には中国石油の100%子会社となったと吉林石化のHPには書いてあります。2008年には、エチレン生産能力を年間85万トンまで増強しました。日本でいちばん大きな三菱化学の鹿島コンビナートと同規模のエチレン生産能力をもつコンビナートが吉林市の一角にあることになります。


 日本の三菱化学などの一般的な石油化学企業の形態とやや異なるのは、吉林石化が中国石油という石油企業の一部を形成する企業形態だということです。こうした形態の石油化学企業は、本来的に親会社の石油企業の経営方針に大きく影響を受けやすくなります。何故なら、石油化学原料のナフサは、原油から得られるガソリン、軽油、重油など石油精製によって得られる連産製品の10〜25%を占める一部の製品であり、また、その製品割合は精製の条件や精製する原油の性質によって上述のように大きく変えることが出来るので、ナフサの価格をどのように設定するかは親会社の中国石油のさじ加減次第だからです。実際、吉林石化で精製する原油の相当量は、国際市場で調達したものではなく、北隣の黒龍江省の大慶油田から持ってきているようですから、こうした影響は少なからずあるでしょう。ただそうは言っても、ガソリン、経由、重油など既に国際価格で流通している石油製品に加えて、近年では石油化学原料のナフサも国際的に流通し、国際価格で購入できるようになったので、石油化学製品の競争力を考えるならば、企業内で受け渡しをするナフサ価格も国際価格を意識せざるを得なくなっているはずです。また、大慶油田の原油生産量が1997年をピークに低下の一途をたどっており、今後、国際市場からのナフサの購入量が増えることが予想されます。こうなると原料のナフサ価格を政策的に決めることは出来にくくなるので、石油化学製品の国際競争力の維持強化は、吉林石化にとって今後の大きな課題ではないかと思います。




 吉林省の主要な産業は、自動車産業とこの石油化学産業、そして農畜産加工業です(*1) 。この地に自動車関連産業と中国を代表する石油化学産業の集積が生まれた背景には、歴史的経緯以上の必然性はない(*2)ように思いますが、吉林省はこれらの産業の集積を与件として活用し、自動車産業と石油化学産業のシナジー効果を生み出して、今後の経済発展の原動力にしたいと考えています。したがって、一汽と吉林石化の経営戦略を探ることが、日本側研究チームと研究のカウンターパートである吉林財経大学にとっての大きな関心事でした。「その3」になって初めて書くのは話が前後し過ぎではありますが、そんな理由で今回の「吉林省をあるく」大きな目的の一つは、先の第一汽車集団と吉林石化の実態を調査することだったのです。(それにもかかわらず、現地に行ってみて、まず、私個人の関心がこの地の朝鮮族や中国の生活実態に向かってしまったことは、前回と前々回のコラムを見ていただくとバレバレですね。)


 そうでありながら、しかし、実態調査は失敗といわざるを得ない結果に終わりました。結果的に見れば事前準備が十分でなかったということでしょうが、中国の企業の閉鎖的体質の壁を乗り越えられなかったためとも言えると思います。事前の吉林財経大学側のアレンジで企業訪問は許されたものの、実際に現場に行ってみると第一汽車の方は、一般用に用意された乗用車の組立工程の見学ラインを歩くだけで終わり、吉林石化の方は本社ビルにあるショールームだけの訪問に終わってしまったからです。


 実際に起きたことはこんなことでした。・・・きちんと約束の時間に着いても、両企業とも正門で暫く待たされ、おもむろに出てきたのは割合と美形のお嬢さん。普通なら喜ぶところですが(笑)、今回ばかりはお嬢さんが出てきた瞬間にいやな予感がしたものです。案の定、この方たちは、いわゆる受付嬢さんのようなもので、決められた見学コースを決められた順番で案内してくれるだけです。案内だけでなく、どうも監視役でもあるらしい。質問をしても型どおりの答しか返ってきませんし、ちょっとでも見学コースを外れると注意、警告になります。別に秘密のことまで調べようした訳ではないのですがね。せめて工場で生産している品目や製造能力などを知りたいと思い、ショールームに展示されている中国語で書かれたパネルに懸命に見入っても、吉林省や中央政府のお偉方による工場訪問の記録を書いたものがほとんどで、主要生産設備の規模などこちらの知りたいことはほとんど書いてありません。「工場のパンフレットがありませんか?」と聞いたら、答は以前の中国を思い出させるあの「没有(メイヨ)」。とりつく島もありません。


 それでも、実際に近くを歩き、日本に帰ってから両社のHPなどの公表情報や中国の石油化学産業事情などについて書かれた文献を見ると、いくつかのことが見えてきたように思います。


 吉林省には、このように立派な自動車企業と石油化学企業があるものの、一汽も吉林石化の親会社の中国石油も、その企業戦略は、当然のことながら吉林省にとどまることなく中国全土をにらんだものとなっています。一汽は、トヨタとの合弁事業の新たな拠点を天津や四川に展開しつつありますし、VWとの合弁事業では遼寧省の大連にエンジン生産の新たな拠点を設けました。国有企業から株式会社へと脱皮し、それも国際市場に活動の場を広げていこうとなれば、企業としては当然の行動といえるでしょう。自動車産業と石油化学産業のシナジー効果が期待できる有力分野は、乗用車の一層の軽量化に向けて利用の拡大が予想されているポリプロピレン(PP)などの合成樹脂分野なのですが、中国石油のPPの生産拠点は、吉林省にとっては歯がゆいことながら遼寧省にある錦西石化にあるようで(*3)、HPの情報を見る限り吉林石化ではPPは生産していません。企業戦略と地域の経済開発戦略が必ずしも一致しないことは、日本でもよくあることですが、吉林省の経済発展戦略にも同様の問題があるようです。


 私たちが見学できた一汽の工場は、いずれも長春市内にある乗用車の組み立てライン(*4)と乗用車用のラジエターとカークーラーを組み立てる子会社の部品工場でしたが、どちらの工場でも部品や高度な技術を要する加工組立機械は、中国の沿海部の企業や韓国などから持ってきていました。工場で行っていたクーラーの組立は、クーラー全体をコンパクトにまとめるための合成樹脂製の複雑な内部構造をもつ箱状のパーツにさまざまな金属部品を組み込んでいく作業です。しかし、肝心のその合成樹脂性のパーツは、中国の沿海地域にある加工工場で日本製の樹脂を押出し加工したものでした。


 自動車に用いられる合成樹脂は、鉄やアルミなどの金属素材を代替し、軽量化するために用いられるのですから、衝撃に強く、加工性も塗装性能も良いといったような高機能なものが求められます。こういった機能は、合成樹脂の樹脂としての性質だけでなく、樹脂の押出しや延伸など加工の仕方にも依存するので、自動車企業と石油化学企業が合成樹脂の加工プロセスを接点としてお互いの技術を摺り合わせることのできる場、合成樹脂の加工技術を持つ産業の存在が重要な役割を担います。しかし、吉林省にそういった素材や部材を製造する産業、いわゆる裾野産業の集積があるようには見えません。


 一方、中国の産業育成政策は、(きちんと調べればいろいろなものがあるのだろうとは思いますが今回の現地訪問で目立ったのは)経済技術開発区、ハイテク産業開発区などの政策です。この政策は、工業団地や研究学園ゾーンを国や地方政府(省)が整備、分譲し、そこに立地する外資系の製造企業、ハイテク企業に対して所得税の減免、輸入原料・設備に対する非課税措置などのインセンティブを与え、外資系の企業誘致をするもので、「経済特区」をあちこちに設ける政策といったらよいでしょうか。こういった政策が、中国の安価で良質な労働力の活用をねらう外国からの投資を生み、中国経済のめざましい発展の原動力となっていることは間違いないと思いますが、こういった政策だけでは中国国内に裾野産業が育つことにはなりません。


 現地調査の際に会った吉林省人民政府の産業政策当局者は、長春と吉林のちょうど中間に位置する九台市に経済技術開発区を整備し、自動車産業と石油化学産業の企業を誘致することによって、政策目的の達成を目指すと言っていましたが、その政策が成功するためには、まず何よりも国際企業として発展を目指す一汽と吉林石化が、自動車用の合成樹脂部材の利用拡大に向けたニーズを共有し、吉林省の中で協働して裾野産業を育てようという企業戦略をもつことが、その前提条件として必要だと思います。


 国境を超えて活動し始めた企業の戦略と政府の経済開発戦略を如何にマッチさせ、地域や国の発展につなげるか。これも新たな発展段階に入った中国の抱える大きな課題の一つでしょう。



1.吉林省は中国一のトウモロコシ生産を誇り、それによって吉林省の農畜産加工業が支えられています。実際、吉林省を旅してみると、本当に平地だけでなく丘陵地の全てが、そして、小さな山であればそのてっぺんまでもがトウモロコシ畑で見事と言ってよいほど覆いつくされているのに驚きます。それでも中国が数年前からトウモロコシの純輸入国になってしまっているということを聞くと、近い将来、食糧危機が到来するという警告が真実味をもって聞こえてきます。
2.大慶油田の生産が開始されたのは、吉林石化の建設が始まった約10年後の1963年のことです。
3.吉林省は、隣の遼寧省にはライバル意識を持っているようです。連載第69回の「朝鮮族の中国(吉林省をあるく その1)」にも書いたとおり、吉林省は海への出口を、日本海を目前にして閉ざされているのに対し、遼寧省には大連という港湾都市があります。そういった地の利もあって、大連の経済技術開発区は、中国で最も早い時期に指定された国家級の経済技術開発区であり、現在では外資系企業が約2,000社も進出する大変な発展ぶりを遂げています。
4.ここでは、国産ブランドとマツダの"アテンザ"の2種類の車、年産18万台を組み立てていました。


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