第63回 身近に見た古代人の息吹


 我が家の前に広がる空き地では、今、発掘調査が行われています。作業は昨年末から始まって、約500坪にわたる土地が1m以上も掘り下げられました。そして、そこからは、古代の人々の数多くの生活の跡が発見されました。


 その空き地から200mほど北側には、7世紀末頃に創建された影向寺(ようごうじ)という古刹があります。以前行われた寺の境内の発掘調査で、大宝律令(701年)によって「武蔵国」と改められる以前の表記による「ムサシ」の国の名が刻まれた文字瓦が見つかったことから、寺の創建の起源が確認されました。ちなみに「影向寺」の「影」という字は「陽」に通じるそうで、寺の名前は光に向く寺という意味だそうです。そして、その近くには、オトタチバナヒメの墓と伝えられる古墳があり、また、橘樹評(たちばなこおり)の郡の役所の跡も発掘されています。この地域は、古代では小さな地方の文化圏の中心地だったのです。ということで今回の発掘では、作業の前から古代人の生活の痕跡が見つかることが期待されていました。


 我が家の建つ台地は南面する台地で、確かに古代人が生活の地と選ぶような条件がそろっているように思います。台地の標高は海抜30mほど。近くに貝塚が発見されており、昔は、台地の谷あいまで海がきていたようです。そういった目で見ると台地の端から谷あいに落ちる急斜面は、海辺の海蝕崖の痕のように見えます。古代の人たちは、海岸で海の幸を採り、照葉樹林の台地を陽光に恵まれた畑に変えていったのでしょう。そして奈良時代、平安時代になると、この地は郡の中心地になるほどの人の集積が起きました。


 発掘作業では縄文時代から弥生、古墳時代、奈良、平安時代にわたる遺跡が時には層を成し、時には重なって出てきました。縄文時代の土坑やかまどの跡を始め、弥生時代の竪穴住居址19軒、古墳時代から奈良、平安時代の竪穴住居址13軒、そして掘立柱建物址が10棟出土したそうです。住居の址があまりきちんと重なって出てこないところから、街路とか住宅地といったようなものはなく、広場に各自思い思いに家を建てたように見えます。


 掘立柱の建物は、一辺が2.5mほどの升目の交点に柱を整然と立てた高床式の建物です。中には、縦が20m、横が10mにも及ぶ大規模の建物の址も見つかりました。こういった建物は、この時代、普通の住居址には見られないようなかなり立派なものです。どうも郡の役所か、影向寺に関係する建物の一部だと考えられています。太さ20cmほどの柱1本立てるのに、その周囲に直径1mほどの穴を掘ってその真ん中に柱を立て、別のところから土を持ってきて付き固めています。きちんとした仕事がなされています。


 その周辺からは、庶民の住んでいた竪穴式の住居址が出てきました。平安時代というと、たとえ粗末であったとしても、庶民は木造家屋に住んでいたと何となく思い込んでいたので、奈良、平安時代の庶民の家が竪穴住居だったことを知ったのはちょっと新鮮でした。当時としては比較的開けた郡の役所の周辺地域であっても、庶民の家は地べたに筵か何かを敷いたものだったようです。ただ、奈良、平安時代になると、弥生、古墳時代の円形に近い竪穴から、角の取れた四角いものになることから、住居の外観は三角錐のような形のものから入母屋造りのような形に進化したことが見て取れます。


 どの時代の竪穴住居にも、住居の一隅にかまどが置かれます。かまどの跡は赤く焼けた土で分かるそうで、確かに住居址の一部にそうした赤い土のかまど跡が見て取れます。中には、家族が増えたためか、竪穴を横に大きく広げ、それとともにかまどの場所が家の中で移されたものもありました。家族が増え、一族が栄えたのでしょう。


 竪穴住居を見て、改めて不思議に思ったことがあります。竪穴住居は、その字のごとく深さ30〜50cmほどの穴を掘り、そこを床として暮らします。そして、住居の屋根を支えるために、穴の外周部分は少し深く掘るようです。ですから、そこには床になる部分よりもほんの少しだけ深い溝が掘られます。しかし、その溝から外に向かう溝が掘られた形跡はありません。そうなると不思議なのは排水です。夏の雷雨などの激しい雨が降ったとき、どのように家に水が浸水しないようにしたのか。調査に当たった遺跡発掘の専門家の方に聞いても、排水をどうしていたのかということは良く分かっていないとのことでした。


 数多くの出土品もあったようです。多くは弥生式の土器。直径30cmほどの大ぶりの土のつぼも出てきました。中側が滑らかにされていないので、穀物を保存したものと考えられるそうです。時代が下って奈良時代、平安時代の出土品になると、土器もやや薄手になって小皿のようなものも数多く出てきました。一般に弥生時代以降の土器は、5世紀中ごろに高温で焼きしめることの出来る窯が日本に伝えられたことによって、薄手の青灰色の「須恵器」といった陶器に進化するそうですが、この辺で出土したものは窯の機能が十分でなかったせいか、まだ赤茶色を残しています。


 専門家も初めて見るような出土品もあったようです。それは、上下できちんと重ね合わせることの出来る手のひらサイズの容器のようなもので、今で言えば大きさも形も女性の化粧コンパクトに似ています。ただ、上下の蓋ともに円周上に小さな穴が穿たれており、ものを保存できるような構造ではありません。蓋の裏には、引っかいたような筆跡で小ぶりの模様が描かれています。日用の品物ではなく、何となく乙女が宝物のように大事にしていたものではないかという想像が浮かんできます。


 今回、発掘が行われた土地は、これまで畑でした。私たち家族が約50年前に引っ越してきたときからずっと畑でした。おそらく、ここ2〜300年は畑だったでしょう。少なくとも近年の土地の状況を見る限り、昔、この地に小さな地方文化の中心があったなどということはなかなか想像できません。しかし、発掘跡を見ると時代を超えて同じ場所に、思い思いに家が建てられた跡があることから、ある時期は家が建ち、そして、その家が朽ちて前の時代の記憶が忘れられたころ、再び、同じような場所に家が建てられたという歴史をこの土地は繰り返してきたことが分かります。前の時代の家と後の時代の家の間には、どんな空白期間があったのでしょうか?そして、何故、そのような空白期間が生まれたのでしょうか?



 発掘調査はもうすぐ終わり、やがて、その土地では老人用マンションの建設が始まります。




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