第56回 萩の横丁が生んだ近代日本
(オマケで「国際炭素市場」構想について)


 真っ青に晴れ上がった空に松の古木が枝を張り、夏の朝の日の光に照らされた白い土塀が続く屋敷街の道に涼しげな影を落としています。


 ここは、山口県萩市の旧武家屋敷街です。萩城址の裏手、すぐそこにある海と街を隔てて立つ指月山(しづきやま)が、自然の要害となるだけでなくこの街の風景にアクセントを与えています。萩は、阿武川の三角州に発達した町です。この三角州は、きっとかつて小さな湾の中に浮かんでいたこの山を陸続きにしたのでしょう。形の整った三角おにぎりのような標高140mほどの指月山は、きっと昔も今も萩の人々にとって、故郷の原風景となっているのではないかと思います。萩は、江戸時代は毛利氏の城下町。関が原の戦いに敗れた毛利氏が、三方を山に囲まれ地の利が悪く、平地には湿地帯の多い萩に移されてから、この地は約250年に渡って長州藩の代々の人々の努力によって端正な城下町へと整備されてきました。


 その街並みにある重厚だが一切の贅をそぎ落としたような門の中には、白壁の、いかにも質実剛健さを感じさせる屋敷が建っています。竹箒で掃き目が付けられ、水が打たれた表庭を通って、質素で思いのほか小さな玄関から屋敷に上がると、意外と天井が低く、飾り気のない部屋が奥座敷に続いています。奥座敷の広縁の先には、家の中の暗さに慣れた眼にはまぶしいほどの白い光に照らされた庭が開け、涼しい川風が吹き渡っていました。そして、その庭のすぐ横には、もうほんの少しで日本海に注ぎ込む広い川幅の阿武川(この付近では、三角州でいくつかの川に分かたれ、橋本川と呼ばれているようです)がゆったりと流れ、川面に青空に浮かぶ夏雲や対岸の山や松林を映しています。


 そう、ここは夏の萩の武家屋敷街です。四季の萩、特に日本海側特有の雲が低く暗く垂れ込める、冬の萩を見ないとこの地のことを語ることはできないのでしょうけれど、夏の萩は何とも「凛」とした雰囲気のある素敵な街でした。私は、今回、初めて萩を訪ねたのですが、大好きになりました。


 そして、この城下町からは明治維新の原動力となり、近代日本の基礎を創り上げた人々が輩出されました。萩城三の丸跡に、街並みにマッチするように武家屋敷風に建てられた萩博物館には、この地から出た、そうした人々の名前と顔写真が数多く掲げられています。吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋、久坂玄瑞、桂太郎などという名前は有名ですが、東海道本線を開通させ日本の鉄道網の整備に尽力した井上勝、赤坂の迎賓館などを設計し日本の近代建築の祖の一人となった片山東熊、東京工業大学の初代学長の正木退蔵、日本大学、國學院大學の創始者の山田顕義など、その活躍は多方面にわたっています。少し斜に構えて見れば、長州閥が明治新政府の枢要な地位を占め活躍の場を与えられたから、と思えなくもないのですが、この小さな町から日本の歴史を大きく動かした人材が数多く出たというのは驚きではあります。


 幕末の萩というと吉田松陰の松下村塾が有名で、先に名前を上げた人物の中だけでも、高杉、伊藤、山県、久坂、正木、山田の6人が松下村塾門下生です。1830年に生まれ若干29歳でこの世を去った吉田松陰が、いくら天賦の才に恵まれ、人格高潔で、立派な人だったとは言っても、松下村塾では26から28歳の2年間ほど塾生の指導に当っただけで、これほど多くの人材に、新時代を切り拓く思想的影響と熱情を与え得たのは驚くべきことであり、大変に興味深いことです。これには幕末の日本を覆っていた閉塞感と危機感が、有為な若者に欧米の異質な文化、思想に対する渇望とそれに触発された社会の変革への思いを生んだといった時代背景があったことも影響しているのでしょうが・・・。でも、同じような時代背景にあるにもかかわらず、現代の若者が醒めてしまっているように見えるのは何故でしょうか。(ところで、英国の文豪スチーブンソンが、英国に留学した塾生の一人、正木退蔵から吉田松陰のことを聞いて「吉田寅次郎」という文章を書いたことが、黒川先生のブログにも紹介されていますが、私は、吉田松陰の名が日本でこれほど有名になった理由の一つには、この文章が日本にも伝えられたことがかなり影響しているのではないかと密かに疑っています。いずれにせよ少し調べて見たいと思います。)


 この萩博物館から、ほんの数百メートルほどの武家屋敷の一角に「円政寺」という真言宗のお寺があります。この「お寺」は、神社と寺が共存している、珍しいお寺(神社?)です。神仏習合というのだそうです。神社の本殿と寺の本堂が、それこそ直角に向き合って建っています。不謹慎な発言を予めお許しいただくとすれば、お参りするほうは、まあ、いっぺんに2つ拝めて便利といえば便利なのですが、お賽銭は2度奉納するわけで、ありがたいようなありがたくないような奇妙な体験ではあります。


 実は、この円政寺を私のような旅人が立ち寄るような有名な名所にしたのは、ここが木戸孝允と伊藤博文が一緒に遊んだ場所だからです。伊藤博文が乗って遊んだという木馬も残されていますが、見た感じはちょっと乗って遊ぶといった代物ではなく、本来、乗ってはいけない馬の木像にやんちゃざかりの伊藤博文が住職(神主)の目を盗んで乗っていたというところではないでしょうか。(それにしても、寺と呼ぶのか神社と呼ぶのか、住職と呼ぶのか神主と呼ぶのかややこしいですが、地名は円政寺となっていますから、ここは寺と呼んだ方が良いのでしょう。きっと(笑)。)


 この寺務所の小父さんはなかなか面白い人で、私たち家族の姿を見つけるとこのお寺のことを熱心にいろいろと説明してくれました。実は、正直なところいつまで続くことになるのかと思うほどの饒舌ぶりで、話の切れ目をようやくとらえてお礼を申し上げ、ややほうほうの体でお寺を辞去したのですが、おかげ様でいくつか面白い話を伺うことができました。(後で円政寺の案内書から想像するに、小父さんがきっと私たちに話して聞かせたかった話の続きには、以下の話以外に境内にある日本一の大きさの灯篭の話、高杉晋作や木戸孝允が小さいころ背負われて見させられたという大きな天狗の面の話など、さらに10分以上も続いたに違いなく、ほどほどで失礼したのは正解でした(苦笑)。)


 その面白い話の一つ目は、この寺(神社)の入り口にある鳥居についてです。この神社と寺が共存している珍しいお寺の入り口には、神社の印である鳥居があるのですが、この鳥居の形が特別だというのです。写真の鳥居です。違いにお気づきですか?鳥居の上の桁を支える柱の最上部に丸い玉があるでしょう。これが神仏習合の寺社の鳥居の特徴なのだそうです。


 もう一つ、興味深いといえば興味深いが、話を聞いたときはやや土地の自慢話的なにおいが強いなあと思ったものの、後でじわーっといろいろ考えさせられることになったのが次の話です。


 この円政寺が面しているのが江戸屋横丁。この横丁には木戸孝允、伊藤博文が住んでいて、先の話のとおりこの円政寺でよく一緒に遊んでいたそうです。そして、その2つ西の菊屋横丁には高杉晋作が住んでいました。木戸が1833年、高杉が1839年、伊藤が1841年生まれですから、この3人は「○○ちゃん、遊びましょ」と誘い合っていたのかどうかは知りませんが、子供の頃はこの横丁を一緒に駆け回って遊んでいたに違いありません。さらに、時代は下りますが、江戸屋横丁と菊屋横丁の間にある伊勢屋横丁からは、昭和2年(1927年)に総理大臣になった田中義一が出ています。田中は、明治元年(1868年)の頃はまだ4歳の幼子なので、先の3人と顔を合わせていない可能性もありますが、この3人の話は隣の横丁で育った偉人として話を聞かされて育ったことでしょう。この隣り合った3つの横丁から近代日本を代表する人物が4人も出ているというのはちょっと驚きです。この隣りあわせの小さな横丁が、4人もの近代日本を代表する人物へと成長した少年を生むことになった由縁というか理由も興味深い研究テーマです。


 この点については先の小父さんの説によれば、この横丁は上級武士の住むところではなかったが、毛利元就以来の代々の毛利の殿様が、かつて家柄にかかわらず集めた優秀な家来を、移封された後も旧領地から連れてきて住まわせたところで、そうした人材を輩出する素地があったからということでしたが、実際、この界隈では昔からどこの家も教育熱心なのだそうです。そういった家庭の子供たちが、遊びを通じて優秀な兄貴分や友人の行動に学び、互いに啓発しあって、立派な人物として育っていったのだと思います。そういえば、最近ではそういった子供たちの近所づきあいをほとんど見なくなりましたね。


 現在でもこの地域では東京大学や京都大学に進学する人が多いそうで、今もそうした家風は続いているようですが、しかし、そんな話を聞くと、この地でそうした大学に行けなかった人たちの気持ちが身につまされてしまうように感じるのは私だけでしょうか。どうも天邪鬼はいけません。


 天邪鬼ついでに申し上げると、萩はどうしてこんなに日本の辺境の地になってしまったのでしょう。決して田舎だとか、街が寂れているということではありません。萩の武家屋敷街は凛とした雰囲気のあるよい街ですし、有名な萩焼の産地でもあります。歴史と文化を大事にしていて、観光資源には恵まれていると思うのですが、何と言っても交通の便が悪い。山陽新幹線の新山口駅からは、バスで1時間ちょっと。空路では最寄りの萩・石見空港から、最寄とは言ってもバスで1時間以上かかり、しかも東京から同空港へは早朝の一便だけしかありません。さらに、あたかも萩の中心部を避け、萩の町が発達した三角州の縁を迂回するように走る山陰本線の列車は1日10本ほどで、この区間には特急も走っていないのです。私たちはレンタカーでしたから、不自由は感じませんでしたが・・・。


 そんな萩市が他の同サイズの地方都市と同様に裏寂れた感じにはならず、凛とした雰囲気を保っているのは、どうも萩焼の存在があるのではないかと私は推察しています。萩焼で財を成した窯元の存在が町の財政や活気を支えているのではないか。(先の萩博物館は、武家屋敷風の極めて立派な建物で、そんじょそこらの地方都市が造れるような建築物ではありません。)そうか、芸術の振興で町興しをするということもできるのだ・・・。但し、これは今のところ私の全くの仮説ですし、萩のように伝統と焼き物に適した土があって初めて可能になる方法です。


 そう言えば、萩焼の窯元が経営しているという北門屋敷という旅館には、経営者の道楽で富山から立派な古民家を移築し、箱根の富士屋ホテルのように内部を欧風に改築した逍遥亭という素晴らしい建物がありました。太い木の梁と白壁、大きな木枠の窓の外にはイングリッシュ・ガーデンを臨む部屋の天井にはシャンデリアが輝き、磨き上げられた木のテーブルと椅子の並ぶ、レトロ調のダイニング空間です。そこは、何とももったいないことに旅館の宿泊客の朝食の食事処に使っているだけで、それ以外には何も使っていないのだそうです。昼、夜はフレンチ・レストランでもやったら人気が出るのではないか、と聞いてみたら萩市の人口は5万人しかいないのでとても高級レストラン商売は成り立たないとのことでした。


 でも萩の人には、こんなことはちっとも気にならないのかもしれません。交通の便が悪くたって、へいちゃら。萩の人は、都会の画一的な風俗や流行の影響を受けにくくて、かえっていいんじゃないと思っているような気もします。何といっても、立派な人物を生み出す土壌を有し、萩の薫り高い芸術を生み出すことのできる萩なのですから・・・・。



【緊急の付け足し: 「国際炭素市場」創設構想について】
 前回に引き続き、世の中のにぎにぎしさに背を向けて、萩のお話で終わろうと思っていたのですが、9月4日の朝日新聞(朝刊)で、米国が、欧州の英国、フランス、スウェーデンに加え、オーストラリア、メキシコ、インドネシアとともに「国際炭素市場」の創設案をとりまとめ、9月24、25日のG20で提案するとのニュースが報道されました。


 この案は、開発途上国に先進工業国の資金を(排出権の見返りに)移転する仕組みをつくることによって、途上国の貧困問題の解決や開発に資するとともに、開発途上国を国際合意の枠組みに取り込み、CO2排出削減に向けた世界全体の取組みを促進するという意味で、さすがと思わせる案ですが、こうなったら従来にも増して、9月24、25日のG20で日本の新首相がCO2の排出削減量の大きさを他国と競うなどということは、止めなければなりません。我が国は、排出削減量を競うのではなく、他の先進諸国とのCO2排出削減に要する負担の公平性の確保を追求すべきです。


 「国際炭素市場」が機能すると、CO2の排出削減に要するコストが国際的に平準化するという意味では良いことです。さらに日本にとっては、市場価格が実需によって形成され、投機的な動きがなければ、国内だけで排出削減するよりも削減コストが大幅に安くなるでしょう。しかし、各国の抱える排出権需要の総額は、排出削減義務の大きさによることになります。したがって、高い排出削減目標を約束する国ほど、そうでない国に比べて過分な需要を自ら人為的に創り出し、市場における資金の支払額を大きくする可能性があります。(そもそも、世界のCO2排出量の4%程度しか排出していない日本が、高い削減目標を約束することに、地球温暖化防止の観点からどれほどの意味があるのかも冷静に考える必要があります。)


 さらに、日本のように欧米諸国に比べて遥かに省エネの進んでいる国ではCO2の排出削減は容易ではありません。麻生総理が掲げた2020年において2005年比15%削減という我が国の温室効果ガス排出削減目標を達成するだけでも、日本でのCO2排出削減コストは、EUや米国のコストの約2倍になると見込まれています。排出削減コストの高い国では、これ以上のCO2排出削減対策を講じるよりも「国際炭素市場」で排出権を購入したほうが安いので、CO2を排出する権利という将来に向けて何も生むことのないものを購入するだけのための資金流出が起きかねません。見栄えの良さや「国際社会でのリーダーシップ」などを追って我が国の排出削減目標を安易に深掘りすることは、この資金流出をいたずらに増大させることになります。一方で容易な省エネ努力の余地の大きい(すなわち排出削減コストの安い)国々では、「国際炭素市場」の排出権価格は、同じ価格でも日本にとっての価格よりも割高な価格になるので、これらの国々では排出権の購入よりも省エネが進み、彼我の競争力の差が縮まることだって考えられます。


 もちろん、国内的には意欲的な削減目標を掲げ、中長期的には技術革新に挑戦し、産業構造と生活様式を大きく変革して、「低炭素社会」に移行していくことは必要ですが、それには一定の時間を要します。最終的な目標を「低炭素社会」の形成に置くとしても、それを実現するための国内政策目標と国際的な約束内容のあり方、各国における省エネの実態、政策の時間的要素などは十分に考慮されなければなりません。(このDNDの連載でも何回も指摘していますが、ここでも日本の現場の実態を十分に踏まえることが重要です。)


 また、先進諸国がこうした国際的な枠組みのもとでCO2の排出削減量の約束を行うということは、大まかに言ってその〔削減約束量〕x〔CO2排出権価格〕の額の資金供与を、排出権を潜在的に多く保有する(CO2排出量の削減の余地の大きい)旧社会主義国や開発途上国に約束することになります。しかし、こうした排出権を購入する主体(すなわち資金の出し手)はこれまでの国際援助と異なり日本の民間企業となるので、日本企業の国際競争力に大きな影響を及ぼす懸念があります。いくら省エネ水準が世界最高水準にあったとしても、生産活動が拡大すればCO2の排出量は増大しますから、今後、生産活動が増大する日本の成長産業の成長に足枷をはめることになりかねません。例えば、国内で太陽電池パネルの生産を増やすために、排出権を「国際炭素市場」で購入して来ざるを得ず、結果的にコスト高となって国際競争力を低下させる可能性だってあるのです。


 さらに、世界経済社会の発展のために、一定の資金援助を行い、民間企業の資金移転を図るということは必要なことですが、この資金移転はこれまでの政府開発援助とは異なって、日本国の貢献にはなりません。資金受取国にとっては、支払い国の顔が見えないばかりか、「当然に」受け取る資金です。しかも、資金受取国(受益国)を予め特定することもできなくなります。(なお、国際間で一定の排出権取引を認めるような排出権取引制度が、各国独立の国内制度として導入された場合でも、排出削減に要する費用負担が各国間で同程度にならない限り、以上のような問題は一定程度存在します。)


 夏休みに訪ねた萩の記憶から、いっぺんに現実に引き戻されたような9月4日の新聞の記事でした。




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