第55回 「世界は分けてもわからない」
−動的平衡にある自然と人間の静的な理解−


 福岡伸一先生が、また、サイエンス・ノンフィクション好きにはこたえられない、面白い本を書かれました。ベストセラーとなった「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)に続く、「世界は分けてもわからない」(講談社現代新書No.2000)です。この連載の第18回で、「生物と無生物のあいだ」から得た新鮮な生物観を書きましたが、今度の「世界は分けてもわからない」も、生命の奥深さと精妙さ、その一方で人間の思考と理解の単純さを見事に描き出しています。いくつかの絵画紀行やサスペンスのような話を織り込み、読者をぐいぐいと引き込んでいきます。本屋で手に取ってから、その日のうちに読みきってしまいました。


 15世紀のヴェネチア派の画家、ヴィットーレ・カルパッチョが描いた「コルディジャーネ(高級娼婦)」と「ラグーンのハンティング」という、今では大西洋を隔ててイタリアとアメリカの美術館に収蔵されることとなった2枚の絵が共有する数奇な運命、晩成の随筆家、須賀敦子が描き出したコルディジャーネをめぐるヴェネチアの光と影、境界のこちら側と向こう側を一枚の写真に撮り続けた写真家、渡辺剛の「Border and Sight」、そして、コーネル大学の生化学研究室で起きた黒魔術のような話。そんないくつかの話が織り上げて描き出すのは、いろいろな要素が無数の蜘蛛の巣が網目のように絡まりあい、人為的に明確な仕切りや境界が引けず、パターンも切り取ることの出来ないという生命体の姿です。(ところでこの本をきっかけに、須賀敦子さんというイタリア文化の内面の襞のようなものを読者に伝えることのできる随筆家がいたことを知ったのも、私にとって大きな収穫でした。)


 福岡先生は、そうした生命体の姿をいろいろな比喩を使って読者に語りかけるのですが、その中で私の好きなものは、自然界を理解しようとする際に私たちが自然の中から勝手に切り取る形やパターンの危うさを、北の夜空に輝く北斗七星を使って語る部分です。北斗七星の形は、よくひしゃくに喩えられますが、しかし、ちょっと目の良い人が北斗七星を見ると、その柄の端から2番目の星が双子星で、単純なひしゃくでもないことが分かります(*1) 。さらに、(今では、もうなかなか見ることが出来なくなった)暗く澄んだ夜空の中では、夜空全体の星の数とともに北斗七星の周りの星の数も増し、そのひしゃくの形が星空に溶け込んだように見つけにくくなる。昔、母の故郷の信州の畦道で見た、吸い込まれるような漆黒の空に無数の星々が圧倒的な質感と量感をもって輝いていた星空を思い出します。


 さらにもっと解像度を上げて宇宙の懐から北斗七星を見ると、そもそも7つの星は同じ平面にあるわけではないので、ひしゃくの姿などはもはやどこにも見つけることが出来なくなる。北斗七星は、「宇宙に散らばる、全く異なった遠さの星々を、ほどほどの視力を持つ私たち人間が、天空を仰いで勝手につないで見た、文字通りの空目でしかない」のです。私たちは、この北斗七星のように、自然や生命体を切り取って静的に観察し、連続体で動的平衡にある自然や生命体を理解したように錯覚しがちです。「世界は分けてもわからない」は、自然や生命体に対する人間中心の理解を戒め、自然や生命体に関する研究への向き合い方を教えてくれます。


 これ以上の内容についてはこの本を読んでいただくとして、私は、この本に関連して、役所に勤めていた時に痛感していた人間中心のルールの代表とも言える法律制度を現実世界に適用することの難しさ、事務系と技術系の人間の考え方の差などを思い出しました。後者については、以前、このDNDのコラムでも一時期「理系文系の呪縛」として話題になりましたね。


 法律に基づく措置というのは、基本的にデジタルの判断です。法律制度は、法律の規定に従い、物事をシロかクロ、該当か非該当に分けてとるべき措置を決定するという方法論で貫かれています。しかし、現実世界ではそうした判断は必ずしも容易ではないことが多いものです。


 例えば、こんなことがありました。私が、10年以上前に経済産業省で化学物質の安全問題を担当していたときのことです。一般の方から投書があって、既に何年も前に法律で使用禁止となっているPCB(ポリ塩化ビフェニル)を使用している中古のオイルコンデンサが、今でもオーディオ・マニアのあいだで取引されているのではないかというのです。いただいた情報を参考にしながらいろいろ調べ始めたところ、何とあるマニア向けのオーディオ部品店が、「当社には音質の良いPCB入りのコンデンサを置いています」と小さいがはっきりと謳った、とんでもない広告をマニア向けの専門雑誌に出しているではありませんか!その道のプロに聞いてみると、何でも真空管とPCBを使用したオイルコンデンサで電気回路を構成したアナログアンプは、艶のある何とも言えない良い音を出すのだそうです。(これだから時としてオタクは困る!)


 そこで、至急、その店と周辺の類似の商売をしている店に係官を派遣して、売られていた中古のオイルコンデンサを数点買って来させ、化学分析を実施しました。(警察権があるわけではないので、物証を入手するための試買検査が必要です。)すると案の定、そのうちの数点のコンデンサに使用されているオイルから、PCBが検出されました。しかも、ご丁寧にも純度100%のPCB油を使用したものから、PCBを数%、数百ppm、数十ppm、数ppm含んだものまで何パターンも・・・。「ご丁寧にも」と書いたのは、後でこのバラエティの多さに苦しむことになるからです。


 まず、純度100%のPCBが検出されたものは、これは「PCBを使用した」ものと言って間違いない。直ちに法律に基づく措置を取らなければなりません。しかし、微量のPCBを含んだものをどのように取り扱うかという問題は、そんなに簡単な問題ではありません。法律は「使用」を禁止しているので、微量のPCBを含んだものを「PCBを使用」したものとできるかどうかが問題です。専門家に聞くと、オイルコンデンサでPCBを使用したことによる効果が出てくるのは、確か、オイルの中に最低でも10%程度以上PCBを含む場合でしょうとのことでした。


 ただ、PCB効果の確認される含有量について明確な基準があるわけではない。まあ、10%以上もPCBを含むものは、その含有量の多さから見ても、まず、意図的にPCBを「使用」したものであることは間違いない。しかし、数%となるとどうか。「使用」というのは意図が関係するので、意図的に混入されたもの以外のものを「PCBを使用した」ものとは言えないのではないか。その程度でオイルコンデンサの品質が大きく変わるとも思えない?さらには、ppmオーダーのものをどう判断するか?


 法律上「使用」したものと言えない場合には、それを規制する手段はありません。小さなオイルコンデンサに含まれるオイルの量は少ないので、たとえこの法律で無理に対処しなくとも、廃棄する際に廃棄物処理法にしたがってきちんと廃棄されれば、実際問題としてはおそらく問題はない。が、そうは言っても、法律の目的は、環境経由の人の健康被害を防止することにあり、そうした理由でPCBの使用を禁止しているのですから、行政としてはそういったものを野放しにしておくべきではない、たとえ数ppmとか数ppbの微量のものについても、検出された以上は何らかの措置を講ずべきだという考え方もあり得ます。


 ご説明は不要かも知れませんが、何で「たとえこの法律で無理に対処しなくとも」と書いたかと言うと、法律は、その規定に基づいて確実に執行される必要がありますが、その一方で法的措置の執行によって個人の自由や利益をいたずらに阻害することがないようにもしなければないからです。法律判断の結果によっては、場合によっては人を罪人とするかしないかというほどの重い違いを生んでしまいます。


 このように法律に基づく判断は、時として極めて重い結果を生むのですが、上記の例に見られるとおり、実は法律が想定しているほどその判断の分かれ目となるシロとクロの境界は明確ではなく、シロとクロの境界に存在する灰色の領域の線のないところに線を引く判断が求められることが多いのです。連続したアナログ現象をデジタルに処理する。これは、そんなに簡単なことではありません。法律に基づく判断が時として極めて重いものになるだけに、一層、実態現象の精妙さ奥深さに思いをいたさなければならないと思います。


 一般化して言うのは危険なのですが、役所のようなところで働く理系の人間は、大学で自然現象の連続性や複雑さを実際に扱ってきていることが多いだけに、こうした判断を行うにあたって、いろいろと思い悩むことになりがちです。一方、文系の人間、特に法律を学んで役所に入ってきた人間は、そうしたデジタルな判断を行うことにそれほど逡巡することはない。私から言わせると、大学で法律しか勉強してこなかったような、ちょっと乱暴に言えば「ダメな」文系の人間ほど、自然現象や科学的事象に付随して起こりやすい灰色の領域の中で、線を引く基準について割り切った答をなかなか示せない理系の人間が優柔不断で理解不能な存在と目に映り、理系の人間とのあいだに溝をつくるようです。


 私は、一応、理系の学問を大学、大学院で修めたこともあり、自然の摂理に支配されている人間社会を、人為的な法律制度で割り切ることについての限界を感じてしまうことが多いので、こうした場合、理系の人間が陥りがちな逡巡にシンパシーをより感じますが、もっと公平な立場に立って考えると、こうしたことが起きがちなのは、大学の教養教育の不足が大きく影響しているからではないかと思います。理系の人間だって自然現象がいくら複雑だとは言っても、法律の運用などにあたる場合には人間社会を律していくルール、法律に基づく考え方について勉強し、行政を行っていくうえで必要となる合理的で、かつ、安定性のある判断を的確にするように努力しなくてはなりません。しかし他方、文系の人にも、連続体で動的平衡にある自然や生命体の奥深さ、デジタルではない実態現象について、人間中心ではない謙虚な理解を持ってもらいたいものです。


 大学の教養教育の期間は、さまざまなものの見方に触れる機会、そして、じっくりと物事を考えられる機会として、人生の中で数少ない時間です。大学は、その道では第一級の知識と洞察力をもった教授からの刺激を受けながら、じっくりと物事を考える機会を持つことの出来る、かけがえのない機会です。それにもかかわらず、そうした幅広い思考力の基盤となる教養教育が大学で疎かにされているのではないかという危惧を持つことがあります。


 (ここでは書きませんが、話せば長い、いろいろなハプニングが重なった結果)我が娘は、親の経済力からみると分不相応な私立大学の医学部に通うことになり、現在、医者を目指して勉強中なのですが、その教養教育は半年しかありません。人格的にも優れた人材が求められる医者を養成する場であるにもかかわらずです。そうなった事情は、横で見ていると分からないでもありません。医者になるために習得することが必要な知識があまりに多いのです。私の経験した大学生活とは全く異なり、毎日、朝から夕まで講義と実習で時間割は目一杯詰まり、ひたすら勉強させられています。こんな状況を見て口の悪い私などは、娘に向かって「これじゃ大学じゃなくて、医療技術者養成専門学校だね」と言っていますが、まさにそんな感じなのです。専門が細分化、高度化し、専門人材教育と呼ばれる教育が増加する中で、同様の事態が他の分野でも起きていないか心配です。


 専門知識だけ詰め込まれた「ダメな」医者や法律家や教育者が増えて、世の中が良くなるわけがありません。福岡先生の書かれたこの「世界は分けてもわからない」や、「生物と無生物のあいだ」を、連続体で動的平衡にある自然や生命体の奥深さとその精妙さに思いをいたす入門書として、大学生に是非読んで欲しいと思います。理系、文系問わずです。そして大学が、専門知識の取得や専門家としての訓練を受けることのできる場だけでなく、幅の広い知識と謙虚で柔軟な思考に触れることのできる場となってほしいと思います。


 ところで余談となりますが、最後にくだんのPCBを含んだオイルコンデンサに係る法律判断の顛末を書いておきます。結果的には、含有量50ppmで線を引くことにしました。米国の環境保護庁が試行錯誤を重ねた挙句に「使用と見做す」基準として採用し、その後、国際的にも広く用いられ始めていた基準を使うことにしたのです。効能があろうとなかろうと、使用の意図があろうとなかろうと、PCBを50ppm以上含むものについては、「使用と見做す」という判断です。この問題をめぐっては、もっといろいろな困った話もあるのですが、今回はこの辺で止めておきましょう。




1.この双子星の話は、私が小さい頃、一番初めに宇宙の奥深さに触れた思いのする話でした。これらの星は、ミザールとアルコルという2つの星が互いの周りを回る連星ですが、技術の進歩によって、今ではミザール自身にも、さらに別の伴星があることが分かっているそうです。

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