第53回 地球温暖化対策について、最近、思うこと(その2)


 麻生総理は6月10日、記者会見を開いて日本の2020年におけるCO2排出削減目標、いわゆる「中期目標」を「2005年のCO2排出量に比して15%削減」とするという「決断」の結果を発表しました。この目標は、首相官邸に設けられた「地球温暖化問題に関する検討会」の「中期目標検討委員会」がまとめた「中期目標」の6つの選択肢の中の選択肢(3)「2005年比−14%、1990年比−7%」を基本としつつ、「太陽光発電などの大胆な上乗せ」によってその削減率をさらに1%加算したものと説明されています。


 この「決断」は、前回のこのコラムで書いたとおり、この加算分を除くと従来からの麻生総理のお考えのとおりになされたということになりますが、さらによくよく見てみると、今回の1%の削減率の加算も、従来からの麻生総理の考えに沿ったものということが分かります。記者会見でも発言されているとおり、この1%の裏づけとなっているのは、「太陽光発電の大胆な上乗せ」と説明されていますが、(これも前回のコラムで触れたように)4月9日に麻生総理が「低炭素革命で世界をリードできる国」を目指すとの決意を示されたスピーチにあった「太陽光発電の規模を2020年までに今より20倍」にするという目標と、選択肢(3)を実現するための政策面での裏づけとして示された「太陽光、現状の10倍」との差がCO2排出量で約0.7%に相当するそうですから、結果から見ると今回の麻生総理の「大胆な」「決断」は、既にかなり以前からのお考えであったように見えます。


 こう見えるのは結果論であって、先見の明がおありになったというべきなのでしょうか?そして、6つの「中期目標」に係る選択肢についての国民意見の募集、そして併行して行われた特別世論調査という2つの世論調査から出てきた異なる結果(前者は選択肢(3)の支持は1.0%に留まり、選択肢(1)と(6)の支持がそれぞれ74.4%、13.0%であった一方で、後者は選択肢(3)の支持が45.4%)の中庸をとった選択でもあったということになるのでしょうか?


 まあ、そんな「中期目標」の選択の経緯は、どうでもよい話かもしれませんが、この「中期目標」が日本の今後の国の成り立ち、姿に与える影響が極めて大きいものであることは、読者の皆さんも良くご存知のことと思います。そして、私は、この2005年比−15%という目標は、尋常の覚悟では達成できないほどの極めて高いハードルを、今後の日本の経済、社会の往き方に課した目標だと思います。


 6つの選択肢が、それぞれどれほどの負担を伴うものかについて政府が示した付属資料によると、2005年比−15%のベースとなった選択肢(3)では、CO2排出削減対策に要する経済的負担のためにGDPが2020年で−0.6%押し下げられ(悪化)、その結果、失業率が0.2%上昇(悪化)、世帯当たりの可処分所得が年間4万円減少すると推定されています。さらにエネルギー・コストが上がるため光熱費の負担が世帯当たり年間3万円増えるため、結果として年間世帯当たり約7万円の負担が増えることになる。この7万円の負担増というのは、大変な数字です。2008年の年間消費税負担額の世帯当たりの平均は17万5,000円だそうですから、7万円というのは消費税率が2%アップされたときの負担額に相当します。これは、アジェンダ・セッティング次第では政権基盤を揺るがすような騒ぎに発展しかねないほどの負担増を国民に求めていることになります。また、このレベルのCO2の排出削減を行うというのは、政策当局がどれほど現場の実態を理解したうえでのことなのかどうか分かりませんが、これまでそれこそ「乾いた雑巾を絞るほどの」省エネルギー対策を進めてきた日本の産業、とくに素材産業などのエネルギー多消費型の産業の国内における存続を、本当に危うくするレベルの話です。


 それでもなお、私は、2005年比−15%という目標を掲げることに必ずしも反対ではありません。「地球温暖化問題に関する検討会」で誰かが言われていたように、2020年には日本の経済、社会、産業構造も大きく変わっているでしょうし(いや、変わらなければなりません)、社会全体で高い目標を掲げることによって技術が進歩することが期待できるからです。ただ、問題は、この「目標」の性格にあります。「目標」が、本来の意味での目標であればいい。この「目標」が、しかし、強制されるような「目標」であるなら、話は全く異なります。「目標」が必ず達成されることを求められ、その実現を期すために強制的な手段を用いなければならないような可能性があるものであるなら、政府としてそうした「目標」を掲げるからには、その実現性について責任ある検討が行われ、実現に向けた具体的で確度の高い対策が講じられなければならないと思います。政治が日本の歩むべき姿を指し示す「目標」と政府が実現に責任を持たなければならない「目標」とは峻別される必要があります。


 そういった目でみると、 「ポスト京都議定書」の国際的なCO2排出削減に向けた枠組みについての国際間の議論のこれまでの動向を見る限り、「京都議定書」の時と同様に、この「中期目標」は国の義務となる可能性は極めて高そうです。そうなるとこの「中期目標」は、「京都議定書」の国別削減目標よりも遥かにハードルが高いものだけに、その実行を担保するためにはこれまでのような各界の自主的な取り組みに委ねるという訳にはいかず、国内的には義務的な措置を含む、相当に強力な政府の介入を必要とする政策の執行が必要になる可能性が大きいと考えられます。


  しかし、それにもかかわらず、この「目標」を達成することによって実現しようとする将来の国の姿、そしてそれに至る道筋が明らかになっているとは思えませんし、ましてや「目標」の実現性について責任ある検討が行われ、実現に向けた具体的で確度の高い対策が講じられているようにも見えません。今回の「中期目標」の選択の考え方のベースとなっている2050年に向けた「低炭素社会づくり行動計画」(平成20年7月29日閣議決定)を見ると、そこには低炭素社会への移行の手段として「革新的技術開発」と「既存先進技術の普及」、排出量取引や環境税などの「国全体を低炭素化へ動かす仕組み」、そして、「地域づくり」、「環境教育」、「国民運動」などが並んでいます。技術革新で経済のパイを増やし、富の分配のメカニズムを環境調和型にすることによって、低炭素社会を創り出そうということでしょうが、これらの対策で達成義務となりかねない数量的な「目標」を確実に達成することが出来るのでしょうか?また、対策として挙げられている手段に限界や問題はないのでしょうか? 革新的技術進歩にはもちろん期待したいけれど、技術進歩の実現に日本の将来を賭けるというのも、技術進歩の性格から見てもリスクが大きすぎると思います。そして、何よりも私たちが目指そうとしている将来の日本は、どんな経済社会、産業構造になるのでしょうか?


 さらに、この「低炭素社会づくり行動計画」に掲げられている対策の中には、やや生煮えで効果の曖昧なものが含まれていることも気になります。その一つの例を挙げると同計画の第3章「国全体を低炭素化へ動かす仕組み」の対策の一つとして挙げられているカーボン・フットプリント制度です。


 カーボン・フットプリント(CFP)とは、「商品の製造や食品の生産から輸送、廃棄に至る過程や、サービスの利用に伴って排出される温室効果ガス排出量を表示する」もので、商品や食品、サービスにおいて、その温室効果ガス排出量を消費者に「見える化」することによって低炭素社会に向けた消費者の選択に役立とうというものです。この制度は欧州で生まれ、イギリスでは大手のスーパーマーケットが店舗で扱う7万の商品への展開を視野に試行が始めたこともあって話題となり、日本でも上述のとおり「行動計画」に取り上げられました。


 しかし、当の欧州では、くだんのスーパーマーケットはCFPの採用を止め、欧州連合も数値表示をするCFPではなく、消費者が低炭素型の商品・サービスかどうかを判断できる(定性的)カーボン・ラベルを導入することとしたと報じられています(08年10月31日付け日経産業新聞)。CFPの採用を止めた直接的な理由は「世界中の調達先、工場を網羅してCO2排出量を把握する膨大な手間とコストが情報開示の妨げとなっているため」(同記事)とされていますが、一見、効果的に見えるこのCFP制度には、しかし、よく考えてみると大きな陥穽もあります。


 それは、製品自体が省エネ効果をもつなどCO2の排出削減に寄与するものの場合(例えば、ペアガラスのサッシなど)、CFPの数値で消費者が商品選択をするとCO2排出削減の妨げとなる可能性があること(ペアガラスのサッシの方が普通のサッシよりも製造に手のかかる商品であることから製造時により多くのCO2を排出するが、省エネ効果は、普通のサッシよりも圧倒的に高い)、また、自動車のように製造時に排出するCO2量は、走行時に排出するCO2量より圧倒的に少ない(1万分の一以下といわれる)商品のCFPは意味がないことなどの問題点です。要は、CFPという手法は、それが有効で意味のある商品、サービスをきちんと見極めて適用する必要があるということですが、CFPが有効で意味のある商品、サービスとそうでないものとの間でそんなに明確な線引きができるかどうかは実際問題としてかなり疑問です。まして手間も考えると果たしてCFP制度は「低炭素社会づくり行動計画」で国として推進すべきものとして掲げるべきものなのでしょうか。


 「中期目標」にあり方についての国際交渉、そして「中期目標」の実現のための国内対策の制度設計を進めていくプロセスにおいては、今後、日本の将来に大きな影響を及ぼすさまざまな重大な決断を求められる局面が出てくると思いますが、今回、決定した「2005年比−15%」の「目標」の意味は果たして何なのか、国民はどのような意味で「目標」をとらえているか、「目標」の性格に相応しいその実現方策が検討されているかなどについて、十分に振り返り、その上で必要な決断を行っていくことが重要と思います。


 ところで、今日、6月21日は夏至です。東京の日の出は4時25分、日の入りは19時ちょうど。実は、偶然にも書きたいと思っていたこととほとんど同じことを今日の朝日新聞の「天声人語」で書かれてしまったので、多くを書くことは止めますが、この朝の明るさを利用しないのは何とももったいないように感じます。先の「低炭素社会づくり行動計画」には「サマータイム制度の導入の検討」が挙げられていますが、検討課題として「国際航空路線のダイヤ調整、信号機等の交通安全施設や民間事業の制御・情報システムの改修、労働時間の取扱い等が重要な課題となる」と記されています。既に世界の多くの国が実施しているのに、何故、日本だけ、これらの課題が問題となるのかちょっと理解に苦しむところです。こんなことにも及び腰で、本当に社会の変革などできるのでしょうか?



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