第48回 「峠」−時代を映す人と自然の接点−



 山国の日本には、数多くの峠があります。「峠」という言葉には、何となく明るい安堵感といった響きを感じませんか。山を越えるために坂を上り、ようやく山の高みに達したというほっとした気分と、目の前に広がる異郷に向かって山を下りていく期待感というような気分がないまぜになった感じと言ったら良いでしょうか。昔は、敵地に足を踏み入れるという緊張感をもったようなこともあったことでしょう。最近は、そういった峠もトンネルで抜けることが多くなって、峠の印象もずいぶんと変わってしまいました。

 それにしても地図を見ていると「何でこんなところに峠があるのだろう」と思うようなところに、峠が、今も結構あることに気がつきます。車で峠に至る道の多くは、川筋に沿って谷を登って行きます。渓流を間近に眺め、あるいは、渓谷を見下ろしながら道は坂を登り、そして峠に至る。しかし、地図には、確かに山脈の鞍部であることには違いないものの、そこに至るまでの道が忘れ去られたり、峠の名前だけが残っているように見えたりするような峠を数多く見つけることができます。碓氷峠、大菩薩峠、野麦峠などの有名な峠は、近くの国道に名前を残してはいるものの、人々がいろいろな思いを胸に行き交ったかつての峠は国道が越える稜線からはかなり離れたところにあって、今ではハイキング客くらいしか訪れる者がいないようです。

 こんな疑問を何となく長い間もっていたのですが、服部英雄さんの「峠の歴史学」(朝日選書、NO.830、朝日新聞社)という本を読んで、その疑問が氷解しました。要は、昔の人にとっては当たり前だったことに考えが及ばなかったのです。昔の土木技術では、川沿いの道を造るとその維持管理が困難でした。まず、山腹や崖の崩壊などの危険が多い。さらに、枝沢を流れ落ちる支流を跨いだり、時には本流を対岸に渡ったりする必要があり、橋が必要になる。しかし、橋桁をもつ橋は、川が増水すると簡単に流れてしまう。丸木橋や吊り橋では牛馬が渡れない。牛馬が渡れるように土をのせると橋板が腐る。「橋の寿命は短ければ数日、長くとも半年」だったそうです。だから、昔は、今とは異なり尾根筋を巻きながら登っていく道が選ばれ、稜線の近くで稜線の鞍部へトラバースし、峠を越えていた。その名残りで、今となっては、歴史の中で呼びならわされた名を稜線の別の鞍部を越える新道に譲り、あるいは、行き来のほとんどなくなった峠が、地図には数多く残っているのです。

 中仙道にある和田峠は、峠に向かう道筋は大きく変わった部分があったとしても、峠自体は場所を変えることなく現在に至っている場所の一つです。(もっとも、国道は「新和田トンネル」という立派なトンネルで諏訪平と上田平を隔てる山塊を抜けていて、稜線にある和田峠まで登って行く車はほとんどありませんが・・・。)そして、ここ和田峠は、つい150年前までは中山道という交通の要路にある最大の難所でした。標高1,510mといいますから、上高地とほぼ同じ標高です。同じ中山道にある碓氷峠の960mと比しても圧倒的に高く、冬は雪の降り積もる厳しい峠越えの道となります。

 「峠の歴史学」によると皇女和宮が徳川家に降嫁されたとき、京都から江戸に向かう際に一行が足跡を残すこととなった道は、江戸幕府の指示で中山道となりました。そして、和田峠越えは1861年(文久元年)、旧暦の11月6日、太陽暦に直すと12月7日のことでした。信州のこの付近の12月の風は身を切るように冷たく、山には年によっては雪も降り始めます。実際、峠越えの際は冷たい雨が降り、和田宿を出立した次の日の朝には雪も舞っていたそうです。和宮にとっては、さぞ心細く、京都への里心の募る思いの道行きであったことでしょう。その後、和宮には薄幸な運命が待っていたことを思うと、この和田峠越えは何とも哀れな感じがします。(なお、江戸幕府が和宮ご一行の江戸への旅に中山道を指定したのは、悪意によるものでも何でもなく、大井川、富士川などを渡河する際のリスクが不可避な東海道よりも、中山道の方が安全であろうと判断されたためでした。)

 「峠の歴史学」によると峠には、大きく分けて3つの成因があるそうです。流通の道、軍事の道、そして信仰の道です。流通の道としては、日本では「塩の道」が有名です。これは山国の信濃の国へ海から塩を始めとする交易の品々を運んだ道で、日本海と太平洋沿岸の両方から信濃の国に続く道がありました。日本海からの道は、糸魚川から松本を経て塩尻に至る千国街道。太平洋側からの道はいくつかあって、御前崎のそばの静岡県牧之原市相楽から掛川を通り、秋葉街道を経て長野県の諏訪、塩尻に至る道や、愛知県の岡崎から足助、飯田、伊那と飯田街道、伊那街道を経て塩尻に至る道などがかつての「塩の道」とされています。これらの道の歴史は古く、縄文時代から利用されてきました。例えば、南アルプスの山麓を縫うように続く秋葉街道は、和田峠周辺で採れる良質の黒曜石を運ぶ道でもあったようです。第33回の「星糞峠に行きました」で、御前崎に「星の糞遺跡」があると書いたのを覚えていらっしゃいますか?ところでこれらの千国街道、秋葉街道は、ともに日本を横切る大断層の賜物といってもよいような道です。千国街道は、"フォッサ・マグナ"の西辺の糸魚川・静岡構造線、秋葉街道は中央構造線といった大断層が活動して生まれた直線的な谷や山脈の切れ目をつないで直線的に延びる道です。古代人にとっては、自然の地殻変動で生まれた谷や山の切れ目は、海に向かう格好の通り道だったのです。

 峠の歴史には、こうした自然の生み出した地形の変動の歴史と、その時々の人々の喜怒哀楽や強い思いといったようなものが刻み込まれていますが、そうした歴史も交通手段と土木技術の進歩によって、峠自体とともに山の峰の向こうに忘れ去られようとしています。今では高速道路や新幹線は、そんな峠に刻まれた歴史の襞などにはお構いなく山をぶち抜き、川を跨いで新しい風を地方に吹き込みます。例えば九州自動車道が、これまでの国道3号線や鹿児島本線の通る海沿いのコースとは別れを告げ、八代から東に向けて九州山地に分け入り南下するコースをとったことによって、九州の山深い盆地であった人吉や天孫降臨の地といわれる霧島火山群が広がる高原地帯は、福岡、熊本といった主要都市と直接結ばれることになりました。世界遺産の合掌集落で有名な白川郷や五箇山といったかつての飛騨の秘境も、その玄関先のようなところに東海北陸自動車道のインターができたおかげでアクセスがとてつもなく良くなり、今ではまるで歴史民家公園に行くような感じで訪ねることができます。こんな最近の土木技術の発達を見ていると、「峠」はだんだんと私たちの日常生活から縁遠いものになっていくような感じがします。(ところで、こうしたことを書くのは、地域の歴史や文化が壊されるとか、環境が劣化するとか、そんな非難めいたことを言いたいためではありません。ニュートラルに考えてみても、そんな形容が当てはまるように思います。)

 ところで、「塩の道」の一つだった秋葉街道、今では国道152号線の一部になっている道の途中にある青崩峠(あおくずれとうげ)は、日本を横断する大断層、中央構造線の破砕帯に当っているために、土木技術の発達した現代でも地質が悪すぎてトンネルが掘れない峠として放置され、日本では、もう数少なくなった国道が分断されている地点だそうです。こんな話を聞くと、この青崩峠には「峠」としていつまでも残り続けるのだという、何か峠の執念めいたものを感じませんか。

 「峠の歴史学」に触発され、ここまで峠についていろいろ書き連ねてきてきましたが、ここでハタと気がついたことは、改めて考えてみれば当たり前のことなのですが、「峠」は自然の山の一部というだけではなく、極めて人為的な人間くさいものだということです。どうもこれまで私は、何となく山には峠があるのが当たり前、峠は地形の一部と思っていたような気がします。当然のことながら、峠の3つの成因についての説明に表されているように、峠は人の生活と関わりなく生まれるものではありません。ただ、100%自然の地形と関係ないというわけでもないことも、私がもっていた錯覚というか感覚を生んだ原因のように思います。山がなければ「峠」はあり得ません。Moundはあるがmountainはないと揶揄されるオランダでは峠とは無縁でした。山があっても、それも適度な標高で山容の穏やかな山でないと人の行き来はできませんし、もちろん周囲に人が住めるような土地のない山地では峠はできようもありません。そして、上述のように、その時代の土木技術や交通技術によっても影響されます。「峠」は人間の生活の一部ではあるけれども、同時に自然の一部でもあるという奥の深さを秘めているものなのかもしれません。どうでもよいことかもしれませんが・・・。(もう一つ、余計なことを書き加えれば、私はこの文章を書き始めたとき、こんなに「峠」話に深入りするつもりは全くありませんでした。結果的に「峠」話で終始することになってしまったことに、自分自身、ちょっと不思議な感じを持っています。)

 最後に、全くの余談になりますが、ここで出てきた長野県上田市と静岡県浜松市を結ぶ国道152号線という道は、なかなかに興味深い道のようです。信州話を書くことの多いこのコラムでも何回かご紹介したことのある、この国道の一部、諏訪平から大門峠を経て上田平に至る大門街道は、昔、武田信玄が信濃の国に攻め入る軍事の道として利用した道なのだそうです。確かに、この道は諏訪から上田方面に直線的に抜けることのできる道なので、標高1,441mの大門峠まで登らなければならないという大変さはあるものの、私は、中央高速経由で上田に行く際によく利用します。また、国道152号線の伊那から南に延びる区間には、先の青崩峠のほか、険しい地形のために通行止めになって久しい地蔵峠や、中央構造線の活動によって破砕された岩石によって作り出された「健康に良い『気』を発生させるゼロ磁場地域」として有名な分杭峠(ぶんくいとうげ)などがあり、この国道は秘境マニアの関心を集めているようです。

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