第45回 クリスマスの頃



 早いもので、2008年も過ぎていこうとしています。毎年、この時期は、オランダで買った高さ2mにもなる組み立て式のクリスマス・ツリーを物置から出してきて居間に飾るのが、わが家の恒例行事です。クリスマス・ツリーには、毎年、世界のあちこちの国で少しずつ買い集めたクリスマス・オーナメントをツリーいっぱいに飾ります。最も古手のオーナメントは、25年ほど前にカリフォルニアに住んでいたときに米国の友人からいただいたもの。15年程前にオランダに住んでいた際、ヨーロッパのあちこちのクリスマス・マルクトで買い求めた木造りや陶器のオーナメントも数多くあります。今年は、妻と娘が中国、北京に旧知の友人を訪ねた際に買ってきたオーナメントがその仲間に加わりました。その赤で周囲を縁取られたパンダのオーナメントは、小さいけれどやはり中国風の異質な雰囲気を漂わせています。

 クリスマス・ツリーで最も印象に残っているのは、もう25年程前のことになりますが、米国のStanford大学に留学していたときにHospitality FamilyのNuteさんの家族と飾ったツリーです。Hospitality Familyとは、海外からStanford大学に来て学ぶ留学生が米国の家庭生活に触れることができるよう、ボランティアで自分の家のいろいろな行事に留学生を招く機会を提供する家族のことで、好奇心旺盛な妻が大学の留学生支援センターでこのプログラムに興味を持ち、それをきっかけとして出会ったのがNuteさん一家でした。Nuteさんは、ご主人がBoyce、奥さんがPeggy (Margaret)といい、Stanford大学のある街Palo Altoの高級住宅街に住んでいます。

 確か1983年のクリスマスだったと思いますが、そのクリスマスの飾り付けの準備を一緒にやらないかとお誘いを受けました。下の2人の中学生と高校生の娘、Katie (Katherine)とBetsy (Elizabeth)の発案で、その年は、Nute家の歴史で最大のクリスマス・ツリーを飾ろうということになったので、一日かけてクリスマス・ツリーの飾り付けをしに来ないかというお誘いです。朝からNute家に集合し、まず、ツリーとして飾るモミの木を手に入れるために、Palo Altoの街から山を越え、太平洋岸に広がる農園に出かけました。この辺は、沿岸を流れる寒流によって、よく濃い海霧が発生するところです。幸いにして海霧の冷気に凍えることはなく、広い農園を歩き回って幹の直径20cm、高さ4mほどのこれはという木を見つけました。

 ここまでの話でお気づきと思いますが、アメリカには、クリスマス・ツリーとして使うモミの木を畑で育て、客が自分で良さそうなモミの木を切って買って帰ることのできる農園があります。それでもこれだけ大きな木を買う客はほとんどなく、ようやく見つけた特大のモミの木は、太平洋に向かってなだらかな斜面に広がる農園の隅のほうで、もう長年勝手に育っていたという感じです。一番下の枝回りは、直径3mほどもあったと思います。車まで運ぶのが大変なだけでなく、ようやく車に積んで家に帰ってからも、形を整えるために枝打ちをしたり、枯れ枝や枯葉をすべて取り除いたりの大作業となりました。当時、私は、まだ30代になったばかりの体力の旺盛な時期でしたが、木の扱いに慣れていないこともあって、木を肩にかついて運ぶ途中に頭をしたたかに木にぶつけ、この時ばかりは、Nute家の娘たちの気まぐれと思える発案を少し恨めしく思ったことを覚えています。

 でも、みんなで力を合わせて木をNute家のホールに運び込み、ツリーをホールの中央に立ててロープで部屋の四隅にようやく固定したとき、このクリスマス・ツリーのことは、今後、ずっと忘れることはきっとないだろうと確信しました。畑で大きくなるまで育ってしまった木ですから、枝ぶりが整っているとはいえず、クリスマス・ツリーとしては決して格好が良いわけではありません。また、木が大きすぎて、決して少なくない数のNute家のオーナメントも、ツリーに飾ってみるとまばらに寂しげに広がって、ゴージャスさには程遠い感じです。でも、何と言ってもこのツリーの大きさと、皆で休日を丸一日使ってやった準備作業は、このツリーを皆にとって忘れがたいものにしてくれました。

 実際、その17年後、2000年の夏にBoyceとPeggyを訪ねて再開したときも、このクリスマス・ツリーの思い出話となりました。もう、皆それぞれの家庭を持つようになったNute家の子供たちにとっても、子供時代のクリスマスの思い出として記憶に残るものになったようです。そして、この大きなクリスマス・ツリーは、それと比べるとかなり小ぶりにはなったものの、クリスマスには大きいツリーを飾るという形で、その系譜といったようなものがわが家のツリーにも引き継がれることになりました。

 この時期のもう一つの恒例の行事は、年賀状を書く前に、クリスマスにはやや遅い、クリスマスと新年のお祝いを兼ねたわが家からのメッセージを、カードとともにNuteさんを含め、40人ほどの世界各国の友達に送ることです。このメッセージは、わが家の構成員それぞれの今年の記録を5行程度にまとめ、全体でも1枚の長さに収めたもので、親しい友人との間でのこうした形での年末のメッセージの交換は、最近、国際標準スタイルとなってきた感がありますが、これを書く時、毎年、思うことは、あれほどいろいろなことが起きた一年であったような気がしたのに、この程度の分量でまとめるような大きな目で振り返ってみると、この一年、それほど大きな変化もなく、幸いにも平穏無事な一年を過ごすことが出来たなあということです。平穏無事。それがこの歳になると幸福な生活を送ることが出来ているということになるのでしょう。しかし、こんな風に考えるようになるから、進歩がなくなるのですね。

 ところで、海外の友人から来るこうしたメッセージは、手書きで書かれているものが多く、この解読には結構なエネルギーが必要です。ミミズののたくったような筆跡という表現は、英語から来ているに違いないと思えるような、本当にすさまじい手書きの文字の連なりの中で、「m」「n」「r」「u」「w」などを見分けるのは、まだ初歩的なスキルとしても、横棒のない「t」や、つぶれた「o」などを解読するのには、結構な難行です。これに非英語国民の変な英語も加わりますから、椅子にきちんと座りなおして、古文か経典を理解するように集中して読まなければなりません。大変です。

 クリスマスの時期になると、これまで夜が長くなる一方だった日々が冬至を過ぎてようやく終わり、寒さの本番はこれからでも、これからは日一日と日が延びて、太陽の光が力強さをとりもどして来ることの安堵感を感じます。こうした感覚は、冬の長いヨーロッパ、特に北緯52度に位置するオランダに住んでいた時にはもっと切実で、クリスマスが来ると、「ああ、ようやく冬も折り返しの時期がきた」と少し華やいだような気分になったものです。「クリスマスの文化史」(若林ひとみ著;2004年、白水社)によるとクリスマスが12月25日となった背景には、冬至が過ぎ、太陽が「復活」を始めたことを祝うヨーロッパのあちこちの土着の太陽信仰と結びついたためといいますから、この喜びは北半球に住む人間にとっては普遍的なもののようです。

 ところで、しかし、と変な接続詞の使い方をしますが、この実感を客観的事実で確かめようと国立天文台の「今日のこよみ」というサイトで東京の日の出日の入りの時間を調べてみたら、上述のような感覚は、実は事実に裏付けられたものではないことが分かりました。「今日のこよみ」によると東京で、この冬、昼の長さが最も短いのは12月16〜26日の約10日間で、その長さは9時間45分。これは、やはり冬至(今年は12月21日)をはさんだその前後、それぞれ5日間ほどの期間なのですが、東京の日暮れが最も早いのは、11月28日から12月12日までの期間で16時28分。したがって、冬至の頃は日の暮れるのが5分ほど遅くなっています。

 一方、日の出が最も遅いのは、1月1日から13日までの期間で、6時51分。つまり、日の出の遅さ、日暮れの早さは、冬至が過ぎたら早くなるとか遅くなるというものでは必ずしもないのです。これは、地球の自転軸が傾いているためではないかと思われますが、この事実を知ったことは、ちょっとがっかりすることでもありました。私にとって、冬の日の短さによる心理的圧迫感を感じるのは、朝起きた時にまだ暗いということですが(今は、毎朝、6時15分頃に起きています)、この朝の暗さのヤマは、1月中旬にならないと越えないのだということを認識してしまったからです。まあ、こんなことをぼやいているうちは、この嵐のような経済情勢の中で、平和ボケと言われてもしようがありませんが・・・。

 クリスマスの頃は、過ぎゆく年に起きたいろいろなことを振り返りつつも、春の到来に向けて期待が高まる時期です。夜明け前の闇が最も暗いとか、夜明けの来ない朝はないとか言いますが、未曾有の「金融災害」によって引き起こされた猛烈な不況も年明けには早く底を打ち、新たな光が満ちてくることを祈りたいと思います。米国型資本主義の終焉とか、グローバル化の行き過ぎの反省とか言われていますが、次に来る光はどのようなものなのでしょうか。

 いや、そんな人頼みのようなことではダメで、私たち一人一人がよく考え、努力を惜しまず、新たな光を生み出していかねばなりませんね。技術革新は、間違いなくその新しい光の輝きを増すものになるはずです。

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