第41回 肥後の石橋と地方の力



 体育の日の連休を利用して、私の父の生まれ故郷、熊本県下益城(しもましき)郡美里町という町を訪れました。美里町は、熊本県のほぼ中央に位置し、砥用(ともち)町と中央町が合併して平成16年に生まれた人口1万2,000人ほどの新しい町ですが、私の父は、その旧中央町の佐俣(さまた)という集落にある阿蘇神社の末社、佐俣阿蘇神社の神職の三男として生まれました。

 父は、もう15年ほど前に亡くなりましたが、今回の訪問は、昨年97歳で亡くなった父の長兄、私の伯父の一年祭に出席するための訪問でした。この伯父は、明治の末年に生まれ、住吉大社で長年奉仕した後、福岡県の護国神社の中興に努めました。身内のことながら、進取の気取りと篤実さを兼ね備え、関西や九州を中心に財界にも多くの知己を得ていた人で、80歳過ぎまで第一線で活躍し、親族全体の尊敬を集めていた人でした。

 美里町は、熊本と延岡の間を結ぶ国道218号線を熊本から30kmほど南東に熊本平野を走り、ちょうど九州山地にかかり始めたところにあります。この国道218号線は、熊本県側では阿蘇山の外輪山の南麓を流れる緑川の流域を遡り、宮崎県に入ると高千穂峡や天の岩戸神社、国見が丘といった神話の故郷を経て延岡に至ります。標高1,000mほどの山が連なる九州山地を横断する道であるにもかかわらず、比較的開けた谷に沿って緩やかな曲線を描いて続く、明るい道です。

 そういった比較的穏やかな山越えのルートのせいか、大正から昭和の中頃にかけてこの道に沿って熊本と延岡をつなぐ鉄道建設が構想されたことがありました。実際、熊本から九州山地へのとっかかりとなる砥用町までは鉄道が敷設され、旧式のディーゼルカーがその間を一日数回往復していました。小さい頃、父母とともに父の実家に帰省したとき、熊本から佐俣までそのおもちゃのような鉄道に乗車した記憶がかすかに残っています。それは確か「ゆうえん鉄道」といった名前であったと思い、調べてみるとそれは熊本と延岡の頭のそれぞれ一字をとった「熊延鉄道」という名前の私鉄でした。九州横断鉄道の建設に取り組んだ、この地方の事業家の壮大な構想を表しています。

 しかし、この鉄道は、砥用町から先は建設されることがないまま、モータリゼーションの波におされて1964年3月に廃業されました。(それにしても「熊」を「ゆう」と読ませるとは知りませんでしたね。)この熊延鉄道の跡は、熊本平野から山の谷筋に入り、豊かに流れる緑川が渓流の様相を呈し始めたところに、今でもレンガの橋桁だけを煙突のように残しているのを見ることが出来ます。

 熊本平野から九州山地の山間の砥用町に至る緑川の流域一帯には、国の重要文化財に指定されている通潤橋(つうじゅんきょう)や霊台橋(れいたいきょう)といった、肥後の石工が江戸時代にアーチの原理を用いて建設した石組みの橋が数多く残り、江戸時代末期から明治時代の文化遺産のようになっています。何でもこの石工集団のルーツは、長崎奉行所に勤めていた下級武士の藤原林七という人が、長崎で接触することの出来た外国人からアーチ橋の技術を密かに学んで出身地の緑川流域に持ち帰ったことにあるそうですが、品と風格を感じさせる石組みのアーチ橋が山村の清流に架かる風景への人気が高まって、最近では、緑川流域の石橋めぐりをする人が増えているようです。

 中でも通潤橋は、対岸の台地に川を越えて用水を運ぶために高さ約20m、長さ約70mの石で組み上げられたアーチ型の水道橋で、その精緻な設計、施工もさることながら、用水導管に溜まった泥や石を取り除くために行われる放水の光景が豪快で美しいことから、最近では多くの観光客を集めています。(昔は、農閑期の年数回だけ放水されていましたが、最近では、観光用に比較的頻繁に放水しているようです。【写真1】*) 江戸時代に造られた霊台橋【写真2】は人荷用で、幅は5m、高さが16mほどもある美しさと風格を兼ね備えた橋ですが、この橋は地元の庄屋が資金を出し、周辺の農民が建設に協力して、1846年から47年にかけて、雨の時期を避けつつ、6〜7ヶ月で造り上げられたというから驚きです。

 * 以下に、これらの橋の写真を熊本県国府高等学校パソコン同好会が作成している「肥後の石橋」というサイトと美里町のHPからいくつか転載させていただきます。





 このほかにも、緑川流域には、80基以上の石橋があるそうですが、佐俣阿蘇神社の少し下手、緑川の支流、津留川と釈迦院川が合流する地点に架かっている二俣五橋と呼ばれる橋々も、一見の価値があります【写真3】。ここには、写真のように3つの石造りのアーチ橋(すぐに分かる2つの橋の外、バスが渡っている国道218号線の新橋の向こうに、幅6m、高さ25m程の石橋(年祢橋)が見える)とコンクリートと鉄骨で出来た2つの近代の橋、計5つの橋が集中して架かっていて、それだけでもかなり珍しい風景です。



 それに加えて、このうち手前に見える双子の石橋は、見る角度によってさまざまな趣を見せてくれます。特に釈迦院川に架かる橋の袂から、もう一方の橋を覗いた風景【写真4】は、ちょっとした絵になりそうです。ところで、この双子橋は人荷用なのですが、高さが10mほどあるにもかかわらず、幅が約2m程度しかなく、人にすれ違わなくても川に落ちそうな心細さを感じさせるといった変な面白さも味あわせてくれます。街道とはいえ、人荷の行き来がそれほど頻繁ではなかった、昔のこの付近の往来の様子が偲ばれます。



 これらの石橋は、先にも書きましたが、庄屋を始めとする土地の篤志家が資金を出し、肥後の石工集団の技術とこの地に住む農民の協力によって造られたというから、大したものです。 それにしても、この石橋の建設といい、熊延鉄道の敷設といい、昔は日本の地方は本当に元気だったのですね。

 近代の日本の歴史を読んでみると、明治に入って帝国議会の設立を始めとする民主主義の基盤が整えられた背景には、中央政府が地方の豪農や資産家に徴税の網をかけることに対する見返りのような面もあったようですから、東京の中央政府を中心とした民主主義の発展とともに地方が弱体化してきたのは、ある意味、日本の民主主義の必然的展開なのでしょうか。いやいや、それはあまりにも無知で短絡的な見方なのでしょう、きっと。

 そんな愚にもつかないことを考えながら、川から集落の中心へと道を登ってくると、その先の小高い台地に白壁で周囲を囲まれた壮大な城郭のような建物が見えてきました。城跡に造られた公園かと思ったら、土建屋さんの邸宅だそうです。・・・これも今の日本の地方を象徴する景色です。

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