第4回 民間企業と国際標準化活動
最近、どうも日本の中で"公と私"の関係が曖昧になっているのではないかと感じていたこともあり、「公共」という概念について、まずは手始めにインターネットのウィキペディアで調べて見ました。そして、それがきっかけでいろいろなことを考えさせられました。
まず、ウィキペディアによると、「公共」とは"Public"を翻訳した際の造語だそうです。日本に従来からあった概念ではないようです。さらに、ウィキペディアによると「公共とは私や個と相反するものではなく、相互補完的な概念」とされ、次のような具体的な説明が付されていました。ちょっと長くなりますが、引用します。
「例えば、村に一つの井戸を村人総出で掘って共同利用することは、きわめて公共性の高い活動であり、結果として、個人にも私人にも恩恵をもたらす。しかし、そのことが個人で井戸を私有することを否定するわけではない。個人私有よりも共同所有の方が合理的だという個々人の合意が形成されてはじめて、共同井戸が成立するのである。つまり、私、個の利益を追求したとき、全体の利益を考えた方が合理的であるという結論にたどり着くという点で、最初から全体の利益を優先して、個を軽視する全体主義とは異なる概念である。このことは、ヨーロッパにおける共同体の成立に個人主義が前提となったことの証左でもある。」 確かに、私にとって益のない公というのは意味がありませんが、上記の井戸の例は、「公共」とは、私にとって公共のものとした方が都合のよいときに、他者の賛同を得つつ公共物を作り、利用するということもできそうです。日本は全体主義の国ではありませんが、「公」をお上としていた日本人が思い浮かべる「公共」と、私の益が出発点となる個人主義が前提となった欧米人のそれとは、少し差があるのではないかとも感じます。
冒頭に書いたような問題意識もあり、今後、"公と私"の関係については、このコラムの一つのモチーフとして、それにまつわるいろいろなことを考えていきたいと思いますが、今回は、現在の日々の仕事の中で考えさせられることの多い、標準化活動というある特定の分野における"公と私"の関係について、考えることを以下に書きたいと思います。欧米の民間企業に比して、一般的に言ってわが国の民間企業は、国際規格という一種の公共物をつくる活動(国際標準化活動)への取り組みが活発とは言えず、どうも彼我の民間企業の間で、国際標準化活動に対する重要性の認識についての本質的な差があるのではないかと感じるからです。
(民間企業に「私」のラベルを単純に貼ってしまうのもやや乱暴ですが)製品や商業技術に関する標準など、私としての民間企業にとって標準化に向けたインセンティブが働く分野(すなわち私益のインセンティブが働く分野)で民間企業が行う標準化活動は、"公と私"の関係において、冒頭の共同井戸づくりのような私の活動と考えると、何故、欧米民間企業が国際標準化活動に熱心に取り組むのか、そのインセンティブが分かりやすいように思います。欧米の民間企業にとって、国際規格は、私の利益の追求を発想の出発点として構築する"共同井戸" なのではないでしょうか。一方、国際規格は"共同井戸"であるだけに、製品や商業技術に関する国際規格であったとしても、それが国際規格として出来上がれば、それは産業の活動を支える国際公共財ともなります。しかし、国際標準化活動は国際公共財をつくるための活動だとその活動の生産物だけをみて理解すると、製品や商業技術に関する国際標準化活動で主たる役割を果たすべきプレーヤー、すなわち、その活動の受益者/その活動から排除された被害者を見誤ることになるかもしれません。
ちょっと横道にそれますが、国際標準化活動の意義や役割分担に係る議論をややこしくさせるのは、国際標準化活動には、製品や商業技術に関する国際規格づくりに関する活動以外に、技術の用語の統一、ネジの寸法などのような産業活動の基盤に関する標準化活動や、非常出口を示す標識など公共用の図記号などの社会活動の基盤に関する標準化活動など、私益に基づくインセンティブがおよそ働かないような分野の活動があり、むしろ、歴史的にはそうした分野の国際標準化活動が活動の中心でしたし、また、今後とも重要な分野だからです。ここで、しつこいようですが、本稿では、私益に基づくインセンティブが働くことが期待できる製品や商業技術に関する国際標準化活動に限って議論を行っていることを明記しておきます。そうでないと議論が著しく混乱してしまうので。
製品や商業技術に関する国際標準化活動が私益を出発点とする活動であり、国際規格は、国際標準化活動のプロセス次第で、国際公共財にも、その活動から排除されたことによる被害者を生むものにもなり得ると理解すると、国際標準化活動は、民間企業の市場戦略にとって目の離すことのできないものとなります。生き馬の目を抜くような激しい国際競争が行われている製品や商業技術の分野では、これらに関する国際標準化活動は、実は国際公共財づくりという一見美しいベールを被った、民間企業間の市場争奪戦争の場と理解して注視しておく必要があるのではないでしょうか。特に、欧米企業は、公共物づくりに取り組む際の当たり前の考え方として、私益の追求を出発点として国際標準化活動に取り組んでいる可能性が高いことに留意すべきです。
しかも、この"共同井戸"は、1993年の国際標準を国内標準の基礎とすることを義務づけるWTO/TBT協定(技術的貿易障害の防止に関する協定)によって、世界中が使う共同井戸となりました。私の利益の追求を発想の出発点として、国際間の貿易ルール、さらには世界各国の国内市場の取引ルールの基礎となる国際規格という公共物づくりに、民間企業が主体となって企画し、行動できることになったのです。従来、国際間の貿易ルールの策定は、国家の手に委ねられていました。経済のグローバル化が急速に進展する中で、そうした状況は、民間企業にとっては、時間ばかりかかるが、なかなかはかばかしい進展がみられない、やっかいなことではなかったかと思います。まして、他国内の市場の取引ルールなどは、もっと手の届きにくいものでした。ところが、民間企業がその企画と行動の主体となりうる国際標準化活動の成果物としての国際規格が、世界の多くの国々の貿易の技術上の障害を除去し、国内の取引ルールの基礎となりうるものとなったのですから、考えようによっては、これらの民間企業にとって、事態は大きく改善することになったのではないかと思います。さらに、分野によって事情は異なりうるものの、製品や技術のネットワーク化が進むことによって、こうした製品や技術群のコアになりうる製品や技術に関する取引ルールの持つ意味は、従来に比して格段に重要な意味を持つようになりつつあります。
こうした環境の変化は、欧米流の発想をする民間企業にとって共同井戸の価値を大きく高めることになりました。
しかし、そのような認識のない民間企業にとっては、国際標準化活動が重要といわれても、本来、民間企業の役割ではないはずの「国際公共財」たる国際規格づくりのために、何やら良く分からない国際交渉の場に引きずり出されようとしているという理解にしかならないでしょう。しかし、WTO/TBT協定によってISO/IECなどにおける国際標準化活動が公知の活動になったために、そんなルール作りが進んでいることを知らなかったなどという苦情を言っても、誰も聞いてくれません。ルール作りの場は、完全に開かれていて、誰でも参加できることになっているので、誰も丁寧に、あなたは当事者だから参加しないとだめだよ、などと親切に教えてもくれません。そして、気がついてみると自社の商品や技術分野の貿易や市場取引に関する国際ルールが勝手に他国の同業者によって作られてしまったということが起きてもおかしくない状況となっています。こんな風に考えるとWTO/TBT協定の成立は、(うがった見方をすれば、「陰謀論」的な妄想かもしれませんが)欧米流の発想をする民間企業の賢い国際市場戦略が成就したということだったのかもしれません。
もちろん我が国でも、国際市場で活躍している民間企業は、上記のような国際標準化活動の「本性」を見抜いて、市場戦略の一環として国際標準化活動に取り組んでいると思いますが、そうした国際標準活動の切迫感というか生臭さのようなものが、日本の産業界から漂ってこないのはどうしてなのでしょうか。民間企業の大事な市場戦略ノウハウだから外に言えないのか、実際の市場で国際標準化活動に起因する痛みをこれまでのところ感じていないだけなのか、国際標準化活動は実態的にもやはり国際公共財づくりのための活動と解すべきものなのか、それとも日本の民間企業の多くが国際標準化活動についての十分な基本的知識や理解を有しているという状況にないのか、もう少し研究してみる必要がありそうです。
ただ、もし、公共のものは、「お上」が与えるもの、そして、国際規格は国際公共財であり、国際標準化活動は、「お上」がその中心的役割を担うべきものとの理解が日本の産業界の中にあったとしたら、それはちょっと間違いではないかと、「公共」という概念について存在するかもしれない彼我の考え方の差に気づいて、考えるところを述べてみました。
最後に、人から聞いたこんな話をご紹介します。ドイツのミュンヘンに建つシーメンス本社の会議室の壁には、「国際標準化こそ、自分のビジネスそのものだ」という標語が掲げられているそうです。
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