第36回 蛍のクリスマス・ツリーとリズムと自然の構造化



 それは、夢を見ているような風景でした。空の星がちょっと居場所を変えようと思い立ったかのように、星に紛れていた光が急に動き出し、三日月の淡い光に照らし出された田んぼの上を、音もなく緩やかに飛んでいきます。いつの間にかその光は数を増し、小さな群れとなってゆらりゆらりと揺れながら、私たちの頭の上を通り過ぎて、星空に黒いシルエットを写しだしている背後の欅の木に吸い込まれていきます。再び、目を田んぼのほうに移すと、今度は、農家のシルエットを背景に、光が静かに空に舞い上がっていく。

 この夏、信越国境の斑尾高原に近い里山で見た蛍の舞です。

 今年、この地方で梅雨に降った雨が少なかった影響か、その欅の木に集まってきた蛍は、木のここそこの枝で秘やかに光る程度の数で、例年よりも少なかったようです。それでもその光の一つ一つは、小さく鋭く鮮明で、時として枝の一部がクリスマス・ツリーのようになります。ここしばらくのうちで最も蛍が多かった昨年には、欅の木全体がクリスマス・ツリーのようになったそうですから、それはこの世のものとも思えない美しい光景であったに違いありません。

 (独)科学技術振興機構の北澤さんに、蛍のクリスマス・ツリーを見に行きませんか、とお誘いの声をかけていただいて、斑尾高原を初めて訪れることになったのですが、ここに来てみて分かったことは、この周辺は素晴らしい山の自然と里山の風景に恵まれたところだということでした。そして、もう一つ分かったことは、「蛍のクリスマス・ツリー」見学行に参加しているメンバーの多くは、約40年前、北澤さんたちがまだ学生の時に、一緒に学生村で勉強とスキーに熱中した仲間たちだということでした。そして、どうやらその学生仲間の間で、恋が芽ばえたようでもあります。そんな思い出をこの地にもつご夫婦も何組か参加されていました。

 学生村といえば、私も、学生時代に何年か、夏になると白馬の学生村に出かけたものでした。私がお世話になっていたのは、働き者のまだ赤ん坊を背負ったお嫁さんとちょっと遊び人のご主人、そして、おばあちゃんが経営する民宿で、簡単な机と蛍光スタンドを備えた部屋、朝昼晩の三食と10時と3時のおやつ付きで、確か一泊3,000円といった格安の料金で、学生たちに勉強の場を提供してくれていました。その民宿には、毎年、京都大学の法学部の学生が勉強しに来ていて、滞在している学生たちは、午前中は、朝早くから白馬の爽やかな空気の中で勉強(本当に勉強していました)、午後は、天気が良いと白馬山麓のハイキングに出かけるといった、いたって健康的な生活を、毎夏、一週間ほど楽しんでいたものでした。中でも楽しかったのは、夜になるとそうした学生村に滞在している学生たちが、村の体育館に集まって、民宿対抗のバレーボール大会をしたり、花火大会をしたりすることで、その後では、当然のことながら缶ビールを手に語り合う飲み会になります。今思えば、全く違う大学の、全く違う分野の勉強をしている同年代の学生同士で議論し遊んだ有為な時間でした。そうした中で、東京、京都にそれぞれ帰った後も連絡を取り合うような仲間も何人か出来、そして、知り合いになった女子学生もいます。

 学生村で過ごしたのは、私にとっても、もう30年以上前のことで、あまり多くのことを覚えていませんが、斑尾高原の民宿と「蛍のクリスマス・ツリー」見学行に参加した初老のメンバーの顔を見ていると、思わず白馬の学生村の時のことを懐かしく思い出し、もう長い間会っていない学生村の仲間の顔と二重映しになるようでした。(もちろん、目に浮かんでくる白馬の仲間の顔は、昔のまま、全く年をとっていませんが・・・。)ところで、かつてこの斑尾高原に集まっていた学生さんたちは、理学部の物理や化学科の学生さんたちが中心メンバーだったようで、この日の夜の宴は、「斑尾高原のおばあちゃんの手作り料理」とのコンセプトで用意された地元の方の心づくしの山菜や新鮮な野菜料理をいただきながらの立食パーティであったにもかかわらず、40年前と変わらず論理的で理屈っぽく、やや浮世離れした話題の支配する、頭は少し疲れたけれど、しかし、知的に楽しい催しとなりました。

 蛍のクリスマス・ツリーといえば、こんな話をお聞きになったことはありませんか?それは、東南アジアで、高さ10mほどの木に蛍がびっしりと群がり、その無数の蛍がいっせいに完璧に周期をあわせて点滅するという話です。誰が指揮をしているわけでもなく、また、お互いに意思疎通を図ることができるとも思えない、何十万、何百万匹の蛍が、まるで一つのスイッチで動作するクリスマス・ツリーのように明滅する。これは、ただただ自然界の不可思議の一つとして、受け入れるしかないようにも思いますが、こうした集団同期現象は、「非線形科学」(集英社新書、蔵本由紀著、No.0408G)という本によると非線形科学という科学的現象として理解できるそうです。

 同期現象が発生する理由などは、この本や非線形科学の本をご参照いただければと思いますが、この本は、集団同期についての論文を読んで、著者の蔵本先生が若いころ個人的に魅了されたという、新たな自然観について触れています。書かれていることは僅かですが、それは、私にとっては極めて刺激的なものでした。

 「無数のリズムに満ちた自然、そのようなリズム間の同期から構造化してくるような自然。」例えば、動物の心臓の心拍は、洞房結節と呼ばれる細胞の塊が生み出すリズムによって発生しますが、洞房結節は、約10,000個のそれ自体は自律的なリズムをもつ細胞の塊で、細胞のミクロリズムの協調によって、洞房結節のマクロリズムが生み出されているのだそうです。また、哺乳動物の体内時計は、脳の視床下部の視交叉上核という部位にある約20,000個の「時計細胞」によって発生しているそうです。

 さらに、こうした事実は、私に、全く叙述的なイメージではあるものの、次のようなことを思い起こさせました。

 私たちの体は、約60兆個の細胞で構成されていますが、それぞれの細胞は、それぞれ80億個のタンパク質を持っており、そして、それぞれのタンパク質は、数万の分子で構成されています。生命体が原子、分子に比してそれだけ大きなスケールをもつことは、生命体が生命を維持できる必然的条件ともいえるものだということは、前回の「スケールの違う話」でも書いたとおりです。そして、生命体を構成するそれだけのスケールの無数の原子、分子の振動に起因するタンパク質や細胞のリズムが同期することによって、生体として意味のある生化学反応が生まれたのではないか。さらに、生体をとりまく自然界を見ると、そこには太陽の活動周期、地球の公転や自転、地球内部の熱の大循環、大気や海の大循環、潮の満ち干など、さまざまなリズムがある。そうしたそれらの地球に存在する、すべての無数のリズムが同期現象を通じて、自然が構造化され、生命体を含むさまざまな自然現象を生んでいる。

 「無数のリズムに満ちた自然、そのようなリズム間の同期から構造化してくるような自然」という蔵本先生が語る短いフレーズから私が得た新たな自然観です。敢えて、これに関連して私の頭の中に浮かんだビジュアルなイメージをご紹介すれば、微細な粉体が分散している水溶液に高周波の振動を与えると、一定の条件下で、水溶液のあちこちからまるで柱が立ち上がるというような現象が起きるといったイメージです。(最近では、デンジロウ先生の理科実験などでこの現象はテレビでもよく放映されていますよね。)

 それにしてもこの非線形の科学は、カオスやフラクタルといった、実はニュートンの運動法則などと同様の、私たちの現実世界に潜む不変構造の実態を明らかにして、私たちのもっている自然観、世界観に新たな視点を与えてくれます。著者の蔵本先生が、この本の「エピローグ」で語られているように、現在の物理学が重点をおいている「物質のミクロな構成要素」といった不変構造の探究、すなわち物質と時空の根源の探究だけでなく、科学がもう少し私たちの現実世界に潜む不変構造の探究にその努力を傾注したならば、どれほど現実世界で起きている複雑で不規則的に見える物理現象についての理解や、そのアナロジーとしての社会現象についての理解が進み、私たちの文明観、世界観、価値観なども影響を受けることだろうかと思います。非線形の科学は、なかなかハードルは高そうですが、私の今後の知的関心テーマの一つとしていきたいと思います。

 斑尾高原は、斑尾山から鍋倉山へと続く信越国境を分ける関田(せきだ)山脈の一部です。この関田山脈という名前は、私は初めて聞きましたが、この山脈はいろいろな意味で特異な山脈のようです。最高でも標高約1,300mの斑尾山や鍋倉山がある程度で、あとは標高1,000m程度の比較的標高の低い山々が連なる山脈ですが、日本海から30km程のところにある北を背にした山脈であるために、有数の豪雪地帯となっています。そして、この豊富な雪は山脈中の低地に多くの湿原を生み、ブナの森を育み、ふもとに水田の広がる美しい里山の風景を作りだしました。

 そうした自然を利用して、この地では、関田山脈の峰伝いに総延長80kmにも及ぶ「信越トレイル」と自然教育施設を整備して、地域おこしに力を入れています。実は、今回の「蛍のクリスマス・ツリー」見学行も、昔、学生村で北澤さんたちのグループを世話し、今では、こうした地域おこしに熱心に取り組まれている人々のお世話になって実現したものです。斑尾高原といえば、一時期は、ニューポート・ジャズ・フェスティバルの開催地であり、リゾート開発の成功例として名を馳せていましたが、それも2003年を最後として休演となり、再建の努力を続けられていたようです。「信越トレイル」という、関田山脈の自然と特長を生かした取り組みが、地域おこしにつながっていくことを期待し、応援したいと思います。

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