第35回 スケールの違う話



 このコラムに文章を書かせていただくようになってから、改めて感じたことは、文章を書くためには、自分の中で何回も考え熟成された意見、実際に体験した深い感動や印象に残った経験、そして、何かおかしい、いったい何をやっているんだ、というようなふつふつとした怒りのようなものが心の中にないと、ある程度まとまった文章は書けないということです。

 しかも、私的な体験を語ることはあまり苦労しないけれど、特に意見や苦言を呈するためには、それなりの勉強と自制が必要になる。あまり時流に流されないように、あるいは、質の高くないマスコミやワイドショーなどの論調から一歩距離をおきながら、文章を書くための材料を得るための私にとっての一つの方法は、良書に出会い、そこで得た新しい視点や感動を材料とするということです。経験と深い思索に裏打ちされた立派な人の話を聞くのも良いでしょう。ちょっと目的と手段が逆転するようなことを書きましたが、何よりも自分の世界観やものの見方に新鮮な知的刺激や感動を得て初めて、文章に書けるような考えが自分の中に生まれてくるように思います。

 何でこんなことを書いているかというと、今回は、何を書こうかほとほと困りながら、この原稿を書いているからです。最近、いくつか面白い本は読んだけれど、それは小説だったり、内容を消化して自分のものにするためには、私が最も苦手とする数学と物理の素養の総動員を求められるような「複雑系の科学」なんていう本だったりで、私の理解の程度はとてもその面白さを文章に出来るような状況に至っていません。

 また、最近の政治や行政についても、いろいろ感じることがないことはないのですが、評論を書くのはできるだけよそうという抑制も自制も働きます。(ところで、「複雑系の科学」は、相当に新しい知的刺激に満ちた分野のように思います。いつのことになるか分かりませんが、「複雑系の科学」をできるだけ理解して、それを通じて獲得した新たな世界観のようなものを語ってみたいと思います。)

 そんな状態なので、未だに自分の中で熟成していないテーマなのですが、今回は、人の意識活動と物理的事象のスケールがあまりに異なっているために、私たちが日頃見失っているかもしれないいくつかの視点について考えてみたいと思います。

 私たちは、毎日、いろいろなことを感じ、そして考えながら暮らしています。そうした私たちが日常暮らしている世界を敢えて時間と空間のスケールで特徴付けてみると、せいぜい空間的には数mmから数km(10の-3乗〜10の3乗m)、時間的には1秒から100日程度というところではないでしょうか。いや、グローバル化した時代だから、自分は、日常でも地球規模のことを考えている。時間的にも、数世代、100年程度のスケールでものを考えなくてはだめだという方もいらっしゃるでしょう。でも私は天邪鬼なものですから、そんな発言を聞くとついつい、私たちの感情世界は隣人や知人が好きだとか、嫌いだとか、憎いとか、羨ましいとか、妬ましいとか、あるいは、人の噂も75日というように空間的にも時間的にも、もっともっと小さいスケールではないかと密かに疑ってしまうのですが、まあ、そんな議論をしても、ここはしようがありません。要は、どんなに壮大にものを考え、煩悩を解脱し、悟りを開いたような立派な人たちのお考えも、せいぜい10の-3乗〜10の5〜7乗m(1mm〜1万km)程度の空間と1秒〜3 x 10の4乗日程度(1秒〜100年)のスケールの4次元の時間と空間世界を前提としたものといえるのではないでしょうか。

 しかし、社会科学を含む科学と技術の発展によって、私たちの存在している時間と空間についての科学的知識が深まる一方で、先のような限定的なスケールの時間と空間に慣れ親しんでいる私たちの思考は、時間と空間のスケールの異なる問題については、ずいぶんと限られた、そして一面的なものになりがちです。特に、人間の世界観や価値観を構成する歴史や自然史に関する認識の程度は、1年前、10の1乗年前、10の10乗年前、10の100乗年前といったスケールが等間隔に並ぶ目盛りで刻まれる対数軸のように、古い時代の歴史ほど大きな時間スケールが小さな時間のスケールに繰り込まれてしまい、その時間スケールの中で起きたことについて、頭の中に描くことのできるイメージが粗略になるように感じます。

 実は、こんなことを考え出したのは、「ホモ・フロレシエンス(上)(下)」(Mike Morwood, Penny van Oosterzee著、馬場悠男 監訳、仲村明子 翻訳;NHKブックス No.1112)という、やはり、本を読んだことがきっかけとなっています。この本は、20万年前程には滅んでいたと考えられている原人の一種が、何とたった12,000年ほど前まで、つまり現代人の祖先と並存してインドネシアのフローレス島に住んでいたことを示唆する、考古学上の一大センセーションとなった発見物語を発見者自身が記録したものです。この発見物語は、同時に生臭い考古学者間の対立も描いていて、人間の感情世界のスケールの程度も示しているのですが、上記のような対数軸に繰り込まれた時間軸でものを考えがちな私たちに、いろいろな時間スケールの問題を同時に考えさせる材料を与えてくれます。

 例えば、人類の誕生は約300万年前と言われていますから、これを時間の流れを右向きにとった対数軸の年表で表してみると、人類の誕生は、原点(現在=100)から左側へ6目盛りほどのところ(10の6乗年前)になります。そこから、原点まで続く人類の歴史は、しかし、特に原点の左側、4目盛りほどのところ(約1万年前)で質的に一変します。何故なら、ここで現代人の祖先、新人が生まれ、私たちも祖先の生活ぶりがある程度想像できる旧石器時代に入るからですが、一方、6目盛りから4目盛りの間では、全く異質なことが起きています。そこでは、人類が、原人、旧人、新人と区分される様々な人種を経て進化している真っ最中です。このように300万年(10の9乗日)という時間スケールは、私たちにとってあまりに長すぎる時間であるために、私たちが普段慣れ親しんでいる思考の延長上でものを理解しがちですが、その結果、その時間スケールの中に繰り込まれてしまっている事柄の質の違いとか重みを見失ってしまう危険があるのです。

 こういった私たちが慣れ親しんだ時間スケールを越えた問題を考えるときは、対数軸でなく、次のような普通の軸で考えるような努力をしてみる必要があるのではないかと思います。仮に人間の1世代を20年と仮定すると300万年の間には15万代の親子関係がその時間をつなぐ鎖として必要となります。15万代とこれも一口に言いますが、私たちは、自分たちのせいぜい前後3代くらいの世代にしか実体感覚をもっていないことを思うと、想像を絶する命の鎖の長さと重さが、より実感をもって理解できるように思います。そして、もうちょっと冷静に考えてみると、DNA配列の個人差は約0.1%だそうですから、人類の形質に影響を与える遺伝子も、15万代の間には変化していくのがむしろ当たり前と考えることが出来ます。そして昔は、環境に適応できない個体が生存していくことは、今よりも遙かに困難を極めたでしょうから、これを考え合わせると、特定の方向に進化を遂げ、現在の人類に進化することがむしろ必然であったようにも見えてきます。

 私たちの心の中にある時間スケールの繰り込みを伸ばして、もう一つ別の物理的事象を見てみましょう。日本の北アルプスは、現在でも年に3〜4mmの速度で隆起しています。この程度の変化について私たち人間を含む生物が実感することは困難ですが、しかし、これは100万年のスケールでは3,000〜4,000mも隆起する大変に大きな地殻変動です。また、地球の地磁気は、数十万年に1回程度の頻度で反転していることが知られています。地球の気温も約十万年単位で大きく変動していることが南極のボストーク氷床のコアの分析から明らかになっています。人間の五感でとらえることのできる地球規模の変動現象の最たるものは、地震や火山の噴火だと思いますが、これらの多くは年に数cmの速度で移動する地球を構成するいくつものプレートによる100年で1m規模の変化で引き起こされる地殻現象です。

 隕石の落下などの地球外からもたらされた厄災を除いて、人間や動物が一生のうちに何回も巨大地震や火山噴火に遭遇することなく、また、一生のうちに生活周囲の環境が一変するような造山運動や温度変化、そして(生命活動に及ぶ影響はよく分かりませんが)地磁気の変化に遭遇することなく生息していけるのは、生物の生活している時空のスケールが、幸いにして、地球規模の環境変化の時空スケールとかなり異なっているからとも言えるでしょう。いや全く逆の観点からみると、地球のそういった環境変化の時空スケールの条件があったから、今ある地球上の生命が育まれ、生命体の進化の速度が決まり、約300万年前に人類が誕生したということなのかもしれません。

 地球の約46億年の歴史の中で、生命が生まれたのは約39億年前、そして生命が光合成機能を獲得するのが、約32億年前と言われています。ここまで約7億年かかっています。簡単に7億年といいますが、これも気の遠くなるような時間です。世代間隔の短い初期の生命体では、この7億年の間に、それこそもっと想像を絶する数の世代交代があり、その中で生命体は環境適応を通じて光合成機能を始めとする機能の獲得をしたのでしょう。それから更に約32億年という、これも想像を絶する時間をかけて、生命は人類という生命体を生み出しました。そして、こんな地球と生命の歴史を100万年ごとの歴史を記したカードに記載してみると、人類の進化は、4,600枚のカードの最後の3枚ほどにようやく記されるだけです。しかし、個々のカード毎の自然環境は、例えば、その3枚のカード毎に1,000mずつ成長して高さの異なる日本アルプスが記録されるというように大きく変化しています。

 こうやってみると「地球環境問題」という問題は、最後の1枚のカードのほんの片隅にしか表れない、現代の人間という極めて特殊な視点から見た、しかも現代人という極めて特殊な生物と地球の環境との関わりに関する問題だというようにも見えてきます。

 以上は、時間のスケールで、私たちの意識世界でなじみのある1秒〜10の4乗日というスケールを離れて、10の9乗日(300万年)あるいは1.7 x 10の14乗日(46億年)といった時間スケールで見えてくる世界です。次に、私たちの意識世界でなじみのある10の-3乗〜10の5〜7乗m(1mm〜1万km)から離れて10の-10乗mの原子・分子レベルの空間スケールから見えてくる世界を考えてみましょう。

 実は、このレベルの空間スケールでは、そもそも意識というものが存在し得なくなります。生物とは、そもそも生物を構成する原子や分子の本来的なランダム運動が、生命としての秩序の維持にとって致命的な影響をもたらさない程度の精度に治まるようなスケールでしか存在できないので、人間のように原子や分子の存在を理解できるほどの知能をもつ生命体は、必然的に、原子や分子よりも10の8〜9乗も大きなスケールをもたざるを得ません。だから、私たちの意識世界のスケールの下限値には限界があります。そして、幸いにも「シュレディンガーのネコ」のようなことで頭を悩ませられることはありません。

 このようにスケールを変えて物事をみるといろいろな気づきの機会が生まれてくるように思います。そして、すぐにでもできることは、たまには息を深く吸い、スケールの違う思考を心がけることよって、私たちがとかく陥りがちな狭い感情世界のスケールを超えて、質の低いマスコミなどによるアジェンダ・セッティングなどに踊らされたり、振り回されたりしないようにすることではないかと思います。

 とりとめもない、未成熟な考えを書き連ねてしまいましたが、来週末は、そんな深呼吸をするために信州の高原に行って、「蛍のクリスマスツリー」を見てきたいと思っています。木々に集まる無数の蛍が、同期して光るという、「蛍のクリスマスツリー」も、複雑系の科学で説明できるそうですよ。

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