第32回「授業の場であって、開発の場」



 「授業の場であって、開発の場」。このコンセプトを私が初めて早稲田大学総長の白井克彦先生から伺ったのは、もう6年以上前のことになるでしょうか。当時は、白井先生は副総長をお務めであったと思います。白井先生が、私立大学である早稲田大学の理工学部(当時)の将来像を展望する際の一つのコンセプトとしてお持ちになっているものとお聞きした記憶があります。

 私の記憶が正しければ、白井先生は、「授業の場であって、開発の場」について、次のように語っておられました。それは、国立大学法人と異なり、国の大型研究施設の設置が望めない私立大学の研究大学としての限界、これまで早稲田大学理工学部が企業の製造部門を支える生産技術者を主として排出してきたという社会の中で果たしてきた役割、そして、都心にキャンパスをもつという有利な立地条件等を考えるならば、早稲田の理工学部は、理工系の研究大学のトップを目指すよりも、「授業の場であって、開発の場」であることを目指すことが同学部の特徴を生かす一つの道ではないかというものでした。以下は、私なりの解釈になりますが、「授業の場であって、開発の場」というコンセプトは、産学官連携によって、産業界のニーズにマッチした有用な開発研究を授業と一体となった形で行うことによって、その成果物として研究成果だけでなく、産業界の必要とする即戦力となる一級の技術人材を輩出することを目指すということだと理解しています。「授業の場であって、開発の場」というコンセプトは、私立大学の理工学部が社会の中でその存在意義を発揮し、果たしていくべき役割について、極めて良く考え抜かれ、それを極めて簡潔な言葉で表したコンセプトとして、私の記憶に強く刻みつけられました。

 その後、当時、私が勤めていた経済産業省と早稲田大学との間で、両者の若手が定期的に集まり、産学官連携の推進方策について勉強を進めていた中で、当時、理工学部コンピュータ・ネットワーク工学科に属していた笠原博徳先生の研究室の存在を知りました。私は、多分、これまで瞬時たりともその技術的内容をきちんと理解出来ていないと思うので、以下の記述の正確さは保証できませんが、先生の研究室の活動内容は、確か「並列コンパイラ」というものを用いたマルチコア・プロセッサを開発し、インテルやIBMのプロセッサに勝るとも劣らない処理能力を有するチップを日立との産学連携で開発するとともに、その研究開発に研究室の学生を参加させることによって、チップの実践的設計能力をもつ学生を育てるというものでした。まさに、「授業の場であって、開発の場」というコンセプトを体現する研究開発活動のように見えました。その後、官も微力ながらお手伝いすることになって、産学官で「授業の場であって、開発の場」づくりに向けた取り組みが小規模ながら実際に動き出すことになったのです。

 あれから約5年が経って、私も職場が変わり、この話を忘れかけていた先日、笠原先生から、内輪の研究成果の報告会を、当時、この研究開発に関連した関係者を集めて持ちたいという、うれしいご案内をいただきました。そして、その報告会で発表されたのは、先の「授業の場であって、開発の場」づくりに向けた小規模な取り組みがきっかけとなり、その後、NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)の競争的研究資金と日立を始めとする産業界との連携を得て開発された世界最速、世界最高水準の省電力性能を持つ並列コンパイラを用いたマルチコア・プロセッサでした。報告会では、新たに開発されたプロセッサと米国製のマルチコア・プロセッサの最新製品との性能を比較するデモも行われ、新たに開発されたプロセッサは、優れた並列コンパイラの機能などによって、2倍から5倍も処理速度を高めただけでなく、20〜80%もの省電力性能が発揮されることが報告会の参加者に示されました。また、優れた低電力消費性能を示すための工夫として、一辺20cmほどの太陽電池で発電される電力によって開発されたマルチコア・プロセッサが安定的に動作することも示されました。

 実際、メディアも含めた関係者を集めた公式の研究成果発表会では、この優れた性能が注目され、100以上のメディアで開発成果がキャリーされ、世界中の情報家電メーカーや自動車メーカーから多数の問い合わせがあったそうです。話が前後しますが、こうしたマルチコア・プロセッサは、携帯電話、情報家電、自動車の制御などに用いられていますが、チップへの要求性能がますます高まる中で、処理速度の向上と電力消費の増大による発熱の克服が大きな開発課題となっているそうです。特に、最近では、次々と付加される要求性能に応えるためにチップの電力消費量が増え、チップの表面温度は200℃を超えるといった並大抵のレベルではなくなってきているようです。一方、今回開発された新しいチップは、省電力性能に優れているために、同じ性能を発揮してもチップの表面温度はせいぜい40℃程度にしかなりません。

 こうしたことから、今回開発された新しいチップは、地球温暖化対策が世界の重要課題となる中で、情報化社会の一層の進展と省エネルギーを同時に進めることのできるグリーンIT技術としても高い関心を集めているそうです。2008年4月10日の総合科学技術会議では、福田総理にもグリーンIT技術として披露されました。ただ、グリーンであるかどうかということを総理に確認していただく方法としては、チップに触っていただくという、きわめてプリミティブなやり方であったようです。でも、これは安定的な省電力性能に絶対の自信がなければ出来ませんよね。さもないと総理に火傷させてしまいますから・・・。

 内輪の研究成果報告会に集まった研究開発プロジェクトに関係している企業の会長、社長、CTOなどの第一線の専門家の方々の研究成果の評価に関するご発言を聞いていると、今回開発され、世界一の処理速度と省電力性能を発揮する新しいチップも、用途の見極め、コスト、生産技術などの面で、まだ一層の開発、改良が必要なようです。でも、私のような素人は、今般の開発成果をもとに、太陽電池で正確な時刻を刻み続けるソーラー電波時計のように、省電力で充電不要のソーラー携帯電話ができる可能性が示されたことは、使いやすい情報家電の実現に向けたとても大きな進歩のように思います。私の妻などは、外出先で携帯電話を使おうとした途端、電池切れで待ち受け画面いっぱいに表れた大きな赤いバツ印に遭遇して、しょっちゅうショックを受けていますし、私自身も、家では居間から遠く離れた書斎にある充電器に携帯電話をつなぎっ放しにするために、携帯電話を通じた連絡手段が途絶し、たまに連絡してきたような友人や知人に迷惑をかけることが多いものですから・・・。

 研究開発成果に加えて、報告会でデモや説明をしてくれた研究室の助手や大学院生の方々からは、笠原研究室では「授業の場であって、開発の場」のコンセプトが実現している様子が窺われたこともうれしいことでした。笠原先生によると、実際、この研究の過程で研究に参加した多くの学生が、今では日本のチップメーカーの設計や製造の第一線で活躍されているそうですし、また、これは先生には確認しませんでしたが、研究室の助手や大学院の学生も増えたようにお見受けしました。そして、何よりも笠原先生が、持ち前の柔和さだけでなく、内輪の研究成果報告会に集まった方々に堂々と自信を持って研究開発成果を説明されていたのが印象的でした。その報告会に同席された白井先生に「授業の場であって、開発の場」のコンセプトの実現の程度についてのご感想をお聞きしてみると、先生はちょっと小首を傾げて考えられた後、言葉を選びつつ「もっと規模が必要だなあ」とおっしゃっていました。早稲田大学の理工学部(現在は、理工学術院として再編)が、私立大学の理工系学部の一つのあり方を示す「授業の場であって、開発の場」を学術院全体として体現していくためには、確かにまだまだ活動の広がりと時間を必要とするのかもしれません。

 でも、それは、大学の取り組みだけの問題でもなさそうです。日本の産業界が、どれだけ真剣に日本の大学と一緒に研究開発、人材育成に取り組もうとしているか。2004年と少し古い統計になりますが、日本の企業の社外研究費は、まだまだ、日本の大学との共同研究に支出される研究費の約2倍以上が、海外の研究機関との共同研究に支出されています。一方、日本の大学は大学で、国際化を進めつつあり、早稲田大学を始めとする日本の有力大学は、英語による授業、学生の在学期間中の留学機会の提供、そして海外からの留学生の積極的な受け入れに取り組んでいます。もちろん、このグローバル化の時代にあっては、企業活動も大学の活動も国境を越えて国際的に展開することが普通であり、これはこれで一つの方向であると思うのですが、その結果、「授業の場であって、開発の場」というコンセプトも、日本国内における産学連携のあり方に係るコンセプトというよりは、国境を越えた産学連携のコンセプトとして進化、発展し、実現する方が早いのかもしれません。そういえば、もうすぐ開催される京都の夏の恒例行事、「産学官連携推進会議」の分科会のテーマの一つも「産学官連携のグローバル展開」のようですね。

 そうは言っても、そうは言ってもと思うのですが、地の利、人の利を活かした「授業の場であって、開発の場」が、もっと日本のさまざまな大学で花開いてほしいと思うのは私だけでしょうか?日本国内における産学連携の進展に向けた産学双方の関係者の理解と努力と忍耐が、まだまだ必要ではないかと思います。

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