第23回 雪、パレスチナ、そして民族主義



 今年の節分は、大雪でした。書斎の窓から、雪が雑木林や畑に降り積もるのをながめながら、このDNDに何を書こうか考えていました。最近、おかしいと感じることや、腹のたつことはいろいろあるけれど、ホットな話題を追って、いい加減な知識で評論のようなことを書くのは止めよう。できれば、皆さんのお役に立つようなことが書ければいい・・・。(これでもある程度考えて書いているのです。)

 部屋には松任谷由実の「Sugar Town はさよならの町」が流れています。"そんな気がしてた 目覚めた瞬間 町を埋めつくす大雪 カーテンひけば・・・」といった歌詞で始まるこの曲は、結構ハイ・テンポな曲だけれど本当に雪の風景に合う。そういえば、私の青春時代に流行った荒井由美/松任谷由美の歌詞の考論でも、一回してみようか・・・。この人の詩は、本当に凄い言葉と普通の女の子の言葉が共存して、独特の雰囲気を生み出している。でも、これこそ何のお役に立ちそうもありませんね(笑)。

 こんなことをあれこれ考えながら、年末から数ページだけページを繰ったまま、読みさしで机に積んでおいた「まんが パレスチナ問題」(山井教雄、講談社現代新書No.1769)という本を手にとったら、思わず面白くて読み通してしまいました。そして、最後に、そのあとがきの次のような言葉に目がとまりました。

○民族および民族意識は、その時の政治の都合により人工的につくられるものだ。○民族は、命をかけて戦い護るほど確固たる概念でもないし、崇高なものでもない。

 これは著者の山井さんが、内戦が起こって半年後の1991年にユーゴスラビアを訪問して感じられたことだそうです。当時、ユーゴスラビアは、人口2,300万人、「7つの国に囲まれた、6つの共和国、5つの民族と4つの言語、3つの宗教、2つの文字をもつ1つの国」でした。民族を意識しなかったときは、友人や夫婦でいられた人たちが、民族意識が高まるにつれ、憎しみ合い、果ては殺し合って、現在ではスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国に分裂してしまった。これを見て山井さんは、反民族主義の漫画を描き続けようと思ったそうです。世界に民族は約3,000、言語は約5,000、しかし、国の数は200しかない。民族主義が高まると、世界のあちこちでユーゴスラビアのような不幸が起きる・・・。

 その民族問題の最たる問題の一つが、パレスチナ問題です。民族主義を良く理解し、民族主義に反対するために山井さんは勉強し、執筆に2年半もかけて書きあげられたのがこの本です。したがって、「まんが パレスチナ問題」は、もちろんパレスチナに関する本です。実際、この本は、パレスチナに関して私が持っていた数多くの疑問に対する答えのとっかかりを与えてくれました。

 話しは飛びますが、昨年、約25年ぶりに米国の大学院で同級生だったアメリカ人の女性が日本に初めて遊びに来ました。同級生とはいっても、彼女は、明らかに私より5歳ほど年上で(したがって、現年齢は60歳ほどではないのでしょうか。改めて年齢を聞く勇気もありませんでしたが。)大学院では離婚後、2人の男の子の子育てをしながら、次のキャリア・アップのために学位をとるために懸命に勉強していましたから、これまで、長い時間、話しをしたなどということはありませんでした。その彼女を連れて、朝から御殿場、箱根にドライブに連れて行ったその帰りがけの車の中、楽しい一日が暮れようとしていたときのことだったと記憶していますが、彼女が突然、「私は、去年、親戚のパーティに行って、私がユダヤ人のファミリーであることを知った」といったのです。何で急にそんなことを言い出したのかも分からなかったし、実は、ひょっとしてこれは本人にとってはかなり重い発言なのかもしれないと思いつつも、私は、これまで多くの自称および他称ユダヤ人や、コテコテのイスラエル人とも友達なので、「それが何なの?」という感じで、そのまま受け流して会話を続けていました。

 実は、今でも彼女がユダヤ人のファミリーの一員であったことを知ったことについて、本人が感じた重みというものを量りかねていますが、例えば、ユダヤ人とはどういった人たちなのか。何故、ユダヤ人を嫌う人が多いのか。キリスト教とイスラム教とユダヤ教はどのように異なり、何が現在の教徒間の対立を生んでいるのか。十字軍とはなんだったのか。イスラエルという国はどのようにして出来たのか。中東地域で、昔、ヨーロッパ列強諸国は何をやったのか。アラブ諸国とパレスチナの間に何となく距離感があるように感じるのは何故か。ヨルダンのフセイン元国王が、関係者から一目置かれているように見えたのは何故か。ゲリラ組織のトップで、ノーベル平和賞も受賞したアラファトという人はどういう人か。イラクのフセイン大統領は、何故、クウェート侵攻に踏み切ったのか。過激派「ハマス」へのパレスチナ人民の支持は何故強いのかなどなど、一回、勉強してみたかったことが、大変に分かりやすく書かれています。

 もちろん、まんがという手法を使い、枝葉を切って分かりやすさを追求したことによって生じている問題や、本筋でなくむしろ枝葉が強調されているなどの異論もいろいろあるでしょう。しかし、パレスチナ問題に興味は持っていても、手軽にパレスチナ問題の全体像について一定の認識を得るための入門書を知らなかった私にとっては、格好の本でした。しかも、この本は、最後になって「民族意識」の本質を考えさせる、ちょっとびっくりするような展開も用意しています。

 さらに、また「国」とは何だろうということを、再び、この本を読んで考えさせられました。これまで、何回もこのコラムで書かせていただいたように、「国」とは何かということについて、愚にもつかないことをあれこれ考えた挙句、「国」って、個々人にとっては、地縁、血縁、言葉、慣習、価値観、宗教観などが、改めて構えることなく、何となく共有できる集団のことかなあなどと思い始めたところだったのですが、この本は明快に、民族意識に立った国民意識はもつべきではないと主張しているものですから。

 ところで、雪といえば、雪の降り積もった街を見て、ちょっと面白いことに気づいたような気がします。まだ、仮説の域を出ないし、全くたいしたことではないのですが、歩行者のために歩道に降り積もった雪を丁寧にどけるところとそうでないところで、歩道に面している店やビルのテナントの人に対する心遣いとか、心の持ちようの差が見えるのではないかということです。お客さんを大事にする店ほど、心に余裕のある仕事をしているように見えるビルのテナントほど、きれいに雪かきをしているように見えます。私が現在勤めているビルには、老舗の和菓子屋さんが一階にあり、ビル自体もその和菓子屋さんが所有しているのですが、さすがに、店とビルの前の歩道の雪かきに真っ先に人が出て、雪をきれいにのけていました。そんな目で見てみると、店構えやビルはきれいでも、輸入車販売の会社、ゲームソフトの製作会社などのビルや店の前は、2日経っても凍った雪が歩道にまだいっぱいこびりついています。せちがらい商売やストレスのたまる仕事をしているのだろうと思ってしまいます。そんな中、郵便局とゆうちょ銀行が軒を並べている建物の周りの歩道は凍り付いた雪で一杯で、新生郵政公社の先行きが少し心配になりました。

 そんなことを考えながら、そして、家に帰ったら妻にもこうした観察と感想を伝えようと思いながら家に着いたら、家の前の道も、我が家の玄関口も雪がまだ凍り付いたままになっていたのには、言葉を失いました。人のふり見て、まず、我がふり直せ、ですね。本当に(苦笑)。

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