第21回 科学技術と国家 −「国」というものについて−



 素直に喜んでいればよいものを、野球の北京オリンピック予選を見て思わず考え込んでしまいました。それは、韓国、台湾といった手強い相手を下して、見事に北京オリンピックの出場権を獲得した野球の日本代表の選手たち、その多くはプロ野球で活躍している選手たちが、彼らがおそらくこれまで人前で口にしたことがあるとは思えないような「日本のため」とか「愛国心」という言葉を口にして、興奮気味に試合を振り返っていたことがきっかけでした。何故、彼らは、こんなことを口に出したのか、彼らにとって国とは何なのか?

 まあ、よく考えてみれば野球に限らず、サッカーでも、バレーボールでも、日本代表チームの試合では、プロの選手たちも金銭収入に直接に結びつかないにもかかわらず、「日の丸の重みを感じて」所属チームを超え、一致団結して怪我をもおそれず、本当に全力で相手チームにぶつかっていきます。でも、選手一人ひとりにとって、この「日の丸の重み」に体化された国とは何なのでしょうか?

 こんなことを考える自分は、きっと「変な人」なんだろうなと思いつつ、私なりに考えた挙句に行き着いた結論は、きっと彼らは、彼らに向けられた日本の人々の「期待」の大きさを「重み」と感じ、期待の大きさに相応に応えるために、力を発揮しようとしたのだろうというものでした。日本という同じ地理的条件にある島々に生まれ、(幸いにして日本の場合には)言葉を同じくする人たち、それも大勢のそうした人たちから自分たちの代表として認められ、期待が寄せられている。そして、期待が熱狂的な応援として目の前で展開される。それに応えようという意識が「日の丸の重み」だったのだろう。そこには、思想、政治的信条や、政府の政策や、まして、福田さんも小澤さんも関係のない、「国」という意識がある。その意識は、他の人々との一体感とか、人から認められているという意識に支えられているということではないか。

 かつて、私は、このDNDのコラムで「国」とは何かについて何回か触れました。「連載にあたって(連載1)」、「普通に見えて普通でないこと(オランダから見えたこと(3))(連載5)」、「本籍地の危機(連載6)」などに断片的に書いたことがそれですが、慣れ親しんだ自然条件や言語的な条件というものを別にすれば、冒頭に触れた、野球の北京オリンピック予選の引き起こしたフィーバーを通じて思い至ったように、自分が周囲から認められる、期待されるといったことや、自分と自分の家族の生活を信頼感をもって委ねることができるといったことが、自分が所属する「国」を積極的に選択する理由を考えるとすれば、(なかなかそうした機会に直面することはないものの、)その大きな要因を占めるのではないかというような気がします。

 そうだとすると最近の働けど働けど報われることのない、そして社会から認められるどころか、顧みられることもなく放置されているといった思いをもつワーキング・プア層の出現や、将来、老後生活を国から支援してもらうという期待を持って、こつこつと年金保険料を納めた人々に対して、その期待を裏切るような社会保険庁による杜撰な管理を露呈した「消えた年金記録」の問題は、「国」を成り立たせている、そうした意識を根本的に損なうという点で、日本という「国」の本当に、本当に深刻な危機ではないかと思います。

 そんなことを考えていたら、出口さんもメルマガで触れられていましたが、朝日新聞が、科学技術部創設50周年事業として「科学技術と国家」という特集を組みました。実は、「変な人」の私は、この「科学技術と国家」という問題でも考え込まされてしまいました。

 言うまでもなく科学技術は、その成果の光も影も国境を越えて人類全体に及ぶものです。知的財産という形で、一時的に発明者に科学技術成果の独占使用権を認める人為的な政策は、世界各国において普遍的に認められているとはいうものの、知的財産権の対象とならない基礎科学面での成果はもちろんのこと、対象とされた科学技術成果も何らかの形で、あるいは、時間が経過とともに、国境を越えて人類全体に普及していきます。そうだとすると国家は、国の政策として科学技術とどのように付き合えばよいのか?国という一種の利益共同体は、国境を越えて広がる科学技術の振興にどのように取り組むべきか。

 科学技術力は、産業競争力の源泉ともいわれます。こうしたことから、企業の研究開発活動に対する国の政策的支援が科学技術政策の一環として行われています。企業の国籍というのも、良く分からない概念だし、日本経済にとって日本企業の発展が重要だというのも、実は良く分からない考え方と思いますが−何故なら、日本国にとっては、企業の国籍にかかわらず、国内で雇用を増大させ、税金を多く払ってくれる企業が重要なのでしょうから−、そうした議論はひとまず措くとしても、企業の経済活動は、当然に国境を越えて広がっていますから、日本政府が日本国家の科学技術政策の一環で企業の研究開発を支援することの意味は、実は、よく考えられてしかるべき話です。ある大企業の技術系の元社長さんに聞いた話ですが、その会社では、企業にとって最も好条件の研究開発政策が利用でき、かつ、効果的な研究開発が行える国で、できるだけ集中して研究開発を行い、その成果を世界各国に立地する子会社に持って行って、製品を製造し販売し利益を上げるという戦略をとっているそうです。これは、経営者の戦略としては全く正しいのですが、企業の利益と国家の利益は、必ずしも一致しませんから、こうした場合の政府予算や税制による研究開発の振興というのは、国にとってどういう意味を持つことになるのでしょうか。さらに、岩井克人先生が議論されているように、企業は誰のものかなどということを考え出すと、日本のトップ企業の中には外資が相当の株式の持分を保有する企業もあるだけに、国内で日本の企業が科学技術成果を活用して好業績を上げても、その利益の分配まで立ち入って見ないと科学技術政策の成果として手放しで喜ぶこともできないでしょう。

 ただ、企業の研究開発活動に対する国の政策的支援であっても、国の安全保障、災害防止、環境保全など日本国民(あるいは、日本の国土に暮らしている人々)のニーズに応え問題の解決に資する科学技術の振興は、国として行うべきものであることは比較的分かりやすい話でしょう。仮に、企業がその同じ科学技術を海外の事業活動で利用したとしても・・・。

 大学や公的研究機関に対する政府の研究開発支援についても、同様の議論がないことはありません。日本の場合には、まだまだ欧米諸国と比べると普通に見られる状況にはなっていませんが、世界的に優秀な研究指導者が居て、優れた研究を行っている研究機関には、世界中から優秀な研究者が集まります。したがって優れた研究を支援するために、国内にあるそうした研究機関に支出される政府の研究費が、外国から来た研究者によって使われたり、海外の優れた研究機器の購入に当てられたりすることは当然に起こりえます。こうした場合の研究開発の振興が、「国」にとってどういう意味を持つことになるのでしょうか。(実際、日本のバイオ研究の予算の約7割近くが、海外からの研究機器や試薬などの購入に当てられているのではないか。そしてそうだとすれば、それは問題ではないかと騒がれたことが一時期ありました。)ただ、こうしたケースでも、研究の場が、日本国内におかれている場合には、そうした優れた研究が身近で行われていることによって、若い研究者や学生が触発されるといった効果や、コミュニケーション面でのアドバンテージによる周辺企業や研究機関への波及効果は忘れられてはなりません。科学技術活動の国際化が進んでも、科学技術情報の国境を越えた流通ほどには研究者の流動性は高くはありませんし、質が高く濃密なコミュニケーションは物理的近接性に依存しますから、日本の国内に世界をリードする研究の場をもつということは重要なことです。

 他国への科学技術成果のスピル・オーバーが起きることは、当然のことであるし、そうしたことは当たり前のこととして、世界の中の日本として恥ずかしくない科学技術活動への投資を日本の国家として行っていくべきとの立場も、もちろんあるでしょう。いや、スピル・オーバーなどと言う表現を用いる考え方自体がけしからん。日本は、世界の科学技術の発展のために必要な投資を惜しむべきでなく、科学技術先進国として、例えば、最新鋭の宇宙望遠鏡や素粒子加速器など、世界の科学技術研究の公共財ともいえる施設や機器を、たとえ立地場所が日本の国外であったとしても、率先して整備に取り組み、世界の研究者に提供すべきだという主張もあるでしょう。

 私は、これらのどの主張も間違っているとは言えないと思います。ただ、これらの主張が立脚している国益の考え方、ひいてはそこで前置されている「国」とは何かということについての考え方が、これらの主張の間で一致しているとは思えません。「国」や国益とはそもそもそのように多面的なものなのだ。いや、科学技術政策では、科学技術成果が国益に及ぼす影響の多面性という観点に着目して議論すべきものなのだ、という指摘もありそうです。しかし、そうした多面性は確かに存在するとしても、政策資源には限りがあるわけですから、多面的な成果を視野に入れつつも、政策資源の投入の優先順位の判断に資する議論が行われることも必要でしょう。朝日新聞が「科学技術と国家」というテーマを掲げて議論するなら、マスコミの持っている批判的視点と分析力で、こうした科学技術と国家をめぐる問題について踏み込んで欲しかったように感じます。

 新年早々、私の思考の未整理さを表すように、何か理屈を捏ね回したような文章になってしまいましたが、そんな私の混乱におかまいなく、最近、世間では「国の責任」が声高に叫ばれています。「国の責任」というのも良く分からん・・・。年が明けても「国」とは何かという問題は、私にとって重い問いになっていきそうです。

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