第17回 奴奈川姫とヒスイ峡



 とうとう長年のあいだ、やりたいと思っていたことを実現することが出来ました。でも、それは、やってみるととても奥が深く、これからも私を一層のめりこませていきそうです。

 それは何かって?いやいや、そんな大層なことではありません。石拾いです。海岸での・・・。

 富山県と新潟県の県境の近く、親不知、子不知の名称で知られる景勝地の近くの海岸は、「ヒスイ海岸」としても有名です。北アルプスを源流として日本海に流れ出す姫川、青海川の上流域に、翡翠の原石が露出している非常にめずらしい地域があることから、時として、翡翠の原石のかけらが海に運ばれて、海岸に打ち上げられることがあることが、この海岸の名前の由来です。今でもこの海岸で、一日中、石拾いに没頭すると翡翠の小さな原石をいくつか拾えることがあるそうで、実際、この間も若い女性観光客が何気なく海岸で拾った握り拳大の石が、「何でも鑑定団」というテレビ番組で翡翠と判定され、数百万円の値段がついたということがありました。

 私は、このヒスイ海岸で、石拾いをすることが長年の夢でした。念のため申し上げておきますが、決して、決して一攫千金することが目的でなく、石拾いに興じることが夢だったのです。(・・・と強調するところは、何か、少しあやしい。)地質学についてちょっとご興味のある方なら誰でもご存知のように、この地域は糸魚川−静岡構造線、あるいは、フォッサマグナの名前で知られる西南日本と東北日本の二つの異なった歴史を持つ陸地の境界で、西南日本の東端が大陸プレートの沈み込みによって隆起した北アルプスが東と北に険しく落ち込んでいるところです。特に北側は、花崗岩や蛇紋岩などの深成岩で出来ている北アルプスの端が日本海に落ち込んでいるので、こうした深成岩が侵食された石で海岸が形成されていることが期待されました。深成岩というのは、地下の奥深くで、高温、高圧の中で生成した岩石で、様々な鉱物が結晶となって色とりどりの美しい文様を描く石です。

 実際に、ヒスイ海岸に行ってみると、海岸は、予想通り、数センチ大のこうした色とりどり、様々な文様をまとった石でできている砂利海岸です。本当に石が美しい。深い緑色の石、やや明るい緑色の石、青みがかった灰色にいろいろな色の文様のある石、あずき色の石、真っ白な石、暗紅色の結晶の入った石、そして、透明度のあるコバルト色と白や濃緑色の線状の文様の入った石などなど、本当にいろいろな色の石がある。中には、石の文様が断層のような形で途中でずれたものなどもあって、これらの石が、以前、形づくっていた地形の変化の歴史などを考えさせられるようなものもあります。石の一つ一つが、長い長い日本列島形成の歴史を語っています。それらの石が、波打ち際で波に洗われ、きれいな表面をみせて輝いているのですから、石を見ていて飽きることがありません。そして、ちょっと顔を上げると目の前に広がる日本海と海岸線の行く先に切り立った親不知の断崖。行程の都合で一時間ほどの時間しかとれませんでしたが、こんなところで、のんびりと石が拾えるなんて、何とも幸せな時間でした。


ヒスイ海岸で親不知方向を望む

 そして、やはりこのことがこの海岸での石拾いの魅力を増している原因であることは否定できないのですが、それは、この海岸で翡翠が拾える可能性があることです。翡翠は、翡翠色といわれるように翠色の石が宝石として有名ですが、翡翠の多くは、白い石の中に翠色の帯をまとって存在していることが多いので、目は、必然的に白やうすい緑色の石を追うことになります。この目のモードになると正直言って、純粋の石拾いの面白さだけでなく、相当に宝探しの気分にもなっています。腰の痛くなるのも忘れて、波の合間に波打ち際の色鮮やかな砂利に集中して海岸を歩き回る。ちょっとキザに言えば、「夢探し」ともいえるのかもしれません。

 このヒスイ海岸に流れ着く翡翠石の故郷の一つ、小滝ヒスイ峡は、姫川の支流の小滝川にあります。山あいの沢から流れでる小滝川が姫川に合流するのは、河口の糸魚川から車でほんの30分ほど国道148号線を姫川に沿って遡り、明星山という山が大岩壁を見せてヌッと立ちはだかる姿が見え出すところですが、小滝ヒスイ峡は、そこからさらに少し山を登り、その切り立った大岩壁が目の前に迫るところにあります。そこでは、渓流の中に翡翠の大きな原石がいくつも転がっているのを見ることが出来ます。(なお、これらの翡翠の原石は、現在では天然記念物に指定され、もちろん、その周辺は、岩石や植物の採集が禁止され、監視員も常駐しています。)


小滝ヒスイ峡−河原の一番左奥の大きな石が翡翠原石の一つ

 そしてこの小滝川で、日本で初めて翡翠が産出することが発見されたのですが、その発見にまつわる話もなかなかに興味深いものです。日本岩石鉱物鉱床学会誌に発見の報が載ったのは、1939年のことですが、1910年代の後半に起きた「失われた翡翠発見の記録」まで含めると、この地域では、1920年頃から翡翠をめぐるいろいろな事件や不思議なことが続きます。しかも、この話には、早稲田大学校歌「都の西北」や「春よ来い」を作詞したことで有名な糸魚川の文人、相馬 御風(そうま ぎょふう)まで登場してくるのです。

 翡翠は、出雲大社に隣接する真名井遺跡の古墳から発掘された勾玉に使われていたことに代表されるように、古代から勾玉などの貴族の装飾品や祭祀に使われていたことで知られていますが、昭和初期までは、これらの翡翠がどこで産出され、どこで加工されたのかということが考古学の大きな問題となっていました。当時は、日本の国内に翡翠の産出地はないと信じられていたからです。そのため、これらの翡翠は、ミャンマーや中国雲南省、チベットで産出されたものが、中国を経て日本に運ばれ、朝鮮か日本で加工されていたと考えられていました。

 しかし、日本の遺跡から発掘される翡翠の加工品に中国や朝鮮の影響が見られないことは、かなり前から気づかれていましたし、1930年ごろになると姫川渓谷で翡翠に類似した石が産出したという話が風説で伝えられたり、糸魚川の長者ヶ原遺跡から翡翠類似の石が出てきたりしたことなどから、この地方に翡翠が産出するのではないかという考えが出てきます。古代にこの地が奴奈川姫(ぬなかわひめ)に治められていたという土地の伝承があること、奴奈川姫の元となった沼河比売の名は、古事記などに登場し、大国主命(おおくにぬしのみこと)が姫に求婚する話が書かれていること、万葉集巻十三には、「沼名河の 底なる玉/求めて 得まし玉かも/拾いて 得まし玉かも/あたらしき 君が/老ゆらく惜しも」という歌があり、「底なる玉」はヒスイで、ヌナカワは玉(ギョク:ヒスイ)の川と考えられるという説が出されたことなどから、相馬 御風もその当時には、この地方に翡翠が産出するのではないかという考えをもっていたようです。そして、糸魚川地域の偉大な名士であった御風のそうした考えに触発された地元の農民が、小滝川の渓谷で翡翠の原石を発見した・・・とこの地における翡翠の発見の物語は続いていきます。

 翡翠が発見されるきっかけを作り、発見者が御風に真っ先に発見の報を伝えたにもかかわらず、御風は、何故か翡翠については、その後、全く沈黙してしまいます。発見の時期が、太平洋戦争の前後の混乱期であったことから、御風は、翡翠原石の保護を考えて、沈黙を守ったのだとも考えられていますが、今では、その理由は謎に包まれています。実は、御風が懸念したように、戦後の混乱期には、資源開発企業が翡翠原石の採掘を試み、原石にダイナマイトが仕掛けられ破壊されたという不幸な出来ごとも起きています。

 このようにこの地域の翡翠は、人間のさまざまな思いや欲に翻弄され、20世紀に入ってから波乱万丈で謎に満ちた記録を後世に残し始めるのですが、しかし、この地域の翡翠の最大の謎は、縄文時代から古墳時代まで、長期間にわたって利用され続けていたこの地の翡翠が、何故か、その後全く利用されなくなり、20世紀に入るまで歴史の表舞台から影のように消えてしまったことです。

 この原因としては、この地の翡翠のことを知っていた全ての人が、人為的に集団で移住させられたり、抹殺されたりしたという可能性も含めて考えても良いのではないかなどと、ミステリー小説の材料となりそうなことを書いているのは、糸魚川市にあるフォッサ・マグナ・ミュージアムが出版した「よくわかるフォッサマグナとひすい」という本です。実は、ここにご紹介した小滝ヒスイ峡にまつわる歴史は、この本に書かれていたことを参考にしてその概要をまとめたものなのですが、この本には、この他に翡翠の科学や、フォッサマグナを発見したナウマン(あのナウマン像の命名者となったドイツ人地質学者)の話、フォッサマグナの地質学的解説、そして翡翠と翡翠の類似石の解説などが、写真やカラーの図入りでとても良く書かれていて、その科学的水準の高さと内容の豊富さに感心します。この間などは、出張の行き帰りに新幹線の中で数時間以上も読みふけってしまいました。それほどのボリュームもある本です。ようやく、日本の観光地にもこうした読み応えのある本が出てきたことを知ったことも、今回のヒスイ海岸訪問のうれしい発見でした。

 ところで、海岸での収穫の結果をお聞きになりたいですか?それらしき石を数個拾ってきましたが、やはり素人がすぐに翡翠を見分けられるほど世の中は甘いわけがなく、拾ってきた石の多くが、先の本にあった翡翠の類似石の代表例「キツネ石」の写真と解説に良く当てはまることを知って、やや夢破れた感があります。しかも、「キツネ石」の名前の由来が、よく素人が翡翠と間違えるためというから悔しいじゃあないですか。しかし、今、私の目の前の棚には、それでも、まだ翡翠のかすかな夢の残る石が、一つ二つヒスイ海岸の思い出とともに鎮座しています。

 そして・・・やや困ったことに、私の心の中でヒスイ海岸への再訪の夢が、ふくらみ始めてきています。

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