第15回 記録の危機



 私が役所を辞めて、(物理的にも精神的にも)自由な時間が増えたらやろうと思っていたことの一つに、写真の整理があります。どこのお宅でも同じかもしれませんが、整理できていない写真が山ほどある。米国、オランダに住んでいた時に、地の利を活かしてあちこち回った時の写真は、旅行毎に比較的きちんとアルバムに整理してあるのですが、特にもう20年も前のことになる米国に住んでいた当時に撮ったカラー写真は、色の鮮やかさが失われ、色も変わり始めていて、アルバムを見るたびに、文字通り想い出が色褪せていく感じがしてしまいます。

 そこで思いついたことは、ネガからスキャンしてこれをデジタル情報で保存するということでした。ネガは、保存状態がよほど悪くない限り色が褪せるということはありませんし、何よりも、フィルム・ロール別にはなっているものの、撮影日も場所も順序もバラバラのまま、引き出しや箱の中に山のように積んであるネガ・フィルムを整理することができる。そして、かなり多くのスペースを占領しているネガ・フィルムも、アルバムも片づけることも出来る。さらには、見たい時には、デジタル化された撮影時のきれいな映像をみんなで大画面のスクリーン上で見ることが出来るではないか。これが私の頭の中でまとめられた企画案でした。

 そこで、昨年、役所を退官した後、すぐにネガ・フィルムをスキャンしてポジの画像として保存できる高級なスキャナー−何しろ、今度は、この情報が残るわけですから、画像の質が高くなくてはだめだとの頑なに思いつめ−と画像情報を大量に扱えるように、大容量のメイン・メモリーを持ち、DVDプレーヤー内蔵のパソコンを買いに店に走りました。そして、何故か、机と椅子も買い換えてしっかりと作業体制を整え、毎日、少しずつネガからの画像のパソコンへの取り込みを始めました−何しろ、気の遠くなるほどの量のフィルムのネガがあるのですから、我慢強く、少しずつ、塵も積もれば・・・・という覚悟で−。

 あれから約1年経った現在はというと・・・・作業は中断しています。

 根気の問題・・・もあるのですが、ネガの画像の取り込みには、やはり結構な時間がかかる。また、保存する画像の一つ一つに名前を付けるのですが、いつ、どこで撮った写真か分からなくなっているものが沢山あるので、名前に困る。特に、困るのは、同じ旅行で撮った写真でも、撮影した国は分かっても、具体的な場所や前後関係が分からなくなっている場合です。まあ、勝手に名前を付けていけばよいと思われるかもしれませんが、やはり昔の想い出や記録を改変してしまいかねないようなことはしたくない。ということで、フィルムの駒番号をチェックし、昔使った旅行ガイドブックや地図を引きずり出してきて、場所や撮影日を特定し、写真の文脈を守ろうとすると結構大変な作業になる。ということで、「もう少しまとまった時間が出来たら、集中してやろう」という状況になっているのです。

 ところで、直接的にはこういった事情が私の手を止めているのではありますが、実は、このほかに、以前、(株)富士通研究所の吉川 誠一さんから伺ったお話も気になっているのです。(吉川さんは、今年の第6回産学官連携推進会議の第4分科会「求められる高度理系人材」で、座長として鋭い切り口で議論をリードした方です。)それは、「今ほど記録の危機に直面している時代はない」とのご指摘でした。このお話を伺った時の率直な第一印象は、「何と逆説的なことを、敢えて事を構えるようにおっしゃるのだろう」と思ったのですが、お話を伺ってみて、また、それ以降、記録をめぐる問題について様々な話を聞くに付け、全くそのとおりだと思うようになりました。

 人類の歴史の中で、これまで最も長期間にわたって、抽象度の高い内容の記録を残すために人類が用いてきた記録媒体は、石板、獣や家畜の皮、木や竹の皮、パピルス、紙などに、染料、顔料、墨、インクなどで絵、記号や文字として残してきたものでした。こうした記録方式は、約5,000年以上も続いています。中でも書きものとして書物などの形で残されたものは、長期にわたり人類の文化的活動についての最も普遍的な記録手段であり、かつ、蓄積手段でした。

 ところが、ここ30年ほどの間に起きた情報技術の飛躍的な発展によって、人間は、年々、小型化、大容量化、そして高品質化する様々な記録媒体を次々と手に入れることが出来るようになってきました。コンピュータ用のデータの記録媒体で、私自身が手にしたことがあるものを振り返ってみただけでも、紙テープ、磁気テープ、パンチカード、フロッピー・ディスク(8インチ、3.5インチ)、コンパクト・ディスク、MD、DVD、フラッシュ・メモリー、HDDなどがあります。口紅より小さなフラッシュ・メモリーに、動画を保存して持ち歩けるようになるなどということは、私の学生時代には考えられないことでした。(オジサンの昔話になりますが、私が大学に入った頃は、まだ計算尺で複雑な計算をしていた時代でした。大学3年生の時、熱交換器の設計課題をこなすために山のような計算をしなければならなかった私たちにとって、カシオから1メモリ、平方根計算機能がついた電子卓上計算機が3万5,000円で売り出されたことは革命的なことであり、学生には高価な買いものであったにもかかわらず、生協に飛ぶようにして買いに行った記憶があります。)

 しかし、一方でこれらの新しい記録媒体は、その安定性や永続性の面で大きな問題を抱えています。もう、フロッピー・ディスク・ドライブを内蔵しているパソコンなどほとんどありません。また、CD、DVDも規格が異なると互換性に問題が出ます。機器や記憶媒体の互換性だけでなく、プログラム言語の互換性の問題もあります。どんどん新しい記録技術が生まれる一方で、過去の技術で記録されたものについては、新技術への移行のための措置がとられたとしても、良くて一時的、悪ければそうした措置が全くとられない場合もあります。(ワード・プロセッサーで作成された文書の多くは、今はどうなっているのでしょうか?一太郎文書、ワード文書だって将来どうなるか分かりません。)

 さらに、こんな問題もあります。

 現在、日本でも文書の電子化が進められていますが、電子化に当たっては、漢字特有の問題として同じ漢字でも数多くの字体をもつ字については、その字体一つ一つに字体に倣ってフォントを作成し、それぞれのフォントに文字コードを付していかなければなりません。例えば、渡辺の「辺」には65種類の字体が特定され、「辺」「邊」「邉」などというフォントにそれぞれ異なる文字コードを付して、電子化されています。(同様に、斉藤の「斉」には31種類、「藤」には14種類の字体が特定されているそうです。ということは、サイトウさんには、コンピュータの字体があるものだけで、31x14= 434種類のサイトウさんがあるということでしょうか。他にも「西塔」「才藤」「西當」「妻藤」さんなどという苗字もありますから、もう大変です。)

 ということで、住民基本台帳を整備する時には、「住民基本台帳ネットワーク統一文字」として、約20,000字分を特定したそうです。さらに、さらに、戸籍で使われている「戸籍統一文字」という文字数が約55,000字あることも調査で分かってきました。実は、世の中で重要な役割を果たしている漢字としては、このほかに不動産の登記などに用いられている「登記文字」というものが約26,000字あるそうです。

 この作業の何が大変と言って、まず、文字を特定することが大変。電子化に当たっていい加減に字体を変えたりすると、「登記文字」などは人の財産の所有関係にも影響しかねませんから、文字の小さなバリエーションもおろそかにすることなく、「これは固有の字体だ」、「これはどうも誤字だ」、「これは文字の崩し方の誤りだ」、「これは悪筆によるくせ字だ」などということを古文書や旧い時代の辞典に当たって決定したり、実際に地方に行って現地の文書や旧地名をチェックして、字体として残していくべきものを特定することが必要となります。例えば、「代」の下に「土」を書いた「ぬた」(湿地を表す)という山梨県特有の文字が現地調査を行うことによって初めて確認されたとか、「この字を探しています」というWeb調査を実施して、初めて雁だれの中に「民」と書く文字が、奈良県で人の名前として実際に使われていることを特定できた、などというように。(ちなみに、こうしたWeb調査は今年も続けられているようです。)

 次に大変なのは、特定された、「住民基本台帳ネットワーク統一文字」、「戸籍統一文字」、「登記文字」の間の対応関係を明らかにしながら、最終的に保存すべき字体を特定し、その字体のフォントと文字コードを整備していくという作業。

 こんな作業が、文書の電子化に向けて地道に進められているのです。しかし、こういった作業の過程では、誤って失われていく文字や字体もあるでしょう。紙の上に書かれた文字でしか表現できないアナログ情報(はねる/はねない、上が長い/下が長いなど)もないとはいえないのではないかと思います。実は、上述の作業は、経済産業省が資金を提供し、実際の作業は国立国語研究所が中心となって、総務省、法務省、(社)情報処理学会、(財)日本規格協会の協力により、時間をかけ、根気よく、注意深く実施されているので、電子化によって失われるかもしれない過去の記録についてはあまり心配しなくてよいのでしょうが、マイクロ・フィッシュに撮影され保存されていた手書きの文字の画像をコンピュータに転記する際に、これを杜撰に進めたことが一因となって起きたのが、昨今の「失われた年金記録」の問題であることを考えると、この問題の重要さと、周到な準備と相応の資源を投入して文書の電子化を行わなければならないことの必要性が分かります。

 しかしながら、こういった作業を取り巻く環境は、このDNDの「イノベーション25戦略会議への政策提言」のNo.19とNo.24として書かせていただいた「イノベーションと安全と安心(1)(2)」でも指摘した問題と同様に、地味な活動であるがために、社会にとって必要かつ意義ある活動でありながら、社会からあまり顧みられることもなく、また、こうした活動を支える資金、人材ともに恵まれた状況にありません。私たちの生活や社会の活動の基盤を維持、改良するための活動に、それらが地味で目につきにくい活動であればあるほど、きちんと目配りをして必要な投資を行っていくことが重要視されるようになっていって欲しいと思います。

 このように現代社会が記録の危機に直面していることを考えると、写真もポジのプリントにしてアルバムで保存しておくのが最も安全で長持ちするのかもしれません。

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