第14回 Private Standards



 久しぶり(4年ぶり)にジュネーブに行ってきました。ISO(国際標準化機関)の総会を覗いてきたのですが、こちらはもっと久しぶり(約25年ぶり)のことでした。ジュネーブには、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)やWTO(世界貿易機関)の交渉などでこれまでに20回以上訪問したと思いますが、訪れるたびにいつも思うことは、ジュネーブは、レマン湖のほとりにあるという自然条件には恵まれているものの、あの大噴水(Jet d' eau)がなければ、多くの国際機関が立地する都市、あるいは、シャモニーへのアクセスのための都市として人々の記憶に残っても、ジュネーブ自体が観光客をひきつけ、今ほどの賑わいとアイデンティティをもつ都市にはならなかったのではないかということです。

 スイスの建国600年の記念事業として、あの大噴水をつくることを思いついた先人の慧眼には感心させられます。1891年に建設されたという大噴水は、それから100年以上もジュネーブの象徴として観光客を引きつけているのですから・・・。今回のジュネーブ訪問は、夏も終わった9月ということもあって、天気には全く期待していなかったのですが、約1週間の滞在中、ほぼ毎日、気持ちの良い秋晴れが続き、青空に映える大噴水のみならず、レマン湖の向こうに白銀に輝くアルプス(いわゆるジュネーブで言う「偽モンブラン」−残念ながら本物のモンブランまでは見えませんでしたが−)も見ることが出来ました。

 久しぶりに行ったジュネーブでは、まず、路面電車の復活が目につきました。今では、コルナバン駅から国連欧州本部まで、スマートな電車がローザンヌ通りを頻繁に行き来しています。コルナバン駅から空港まで、路面電車を敷設する工事も始まっています。路面電車は、ヨーロッパの各都市で復権を遂げつつあるようですが、ジュネーブもその例外ではないようです。そして、確かに以前より便利になっています。ジュネーブに滞在中の期間、市内公共交通機関共通の一日乗車券をホテルから無料で支給するサービスも始まりました。これは、ジュネーブの国際機関への出張者や観光客にとってはとても便利なサービスです。何でも、市が宿泊税を新設する見返りとしてこうしたサービスが始まったようですが、このやり方には宿泊者としても納得感がもてます。ただ、ホテルの多くは、こうしたサービスがあることを積極的には宿泊客に伝えないようなので、くれぐれもご注意を!

 設立60周年を迎えたISOの今回の総会は、加盟国が154カ国にまで拡大した国際機関としては、それほど意見の対立を生む議題がなかったせいか、あるいは、民間の国際機関らしく効率的な組織運営のためか、極めて順調に進んだのですが、そうした中でやや耳慣れない用語が議事のあちらこちらで、主として中南米の開発途上国の代表から語られました。それが"Private Standards"問題です。気になったので、コーヒー・ブレイクのときに"Private Standards"の問題とは何かとコロンビアの代表に聞いてみたら、次のような説明をしてくれました。

 「最近、先進国の巨大流通卸売業者が、原料や製品を購入する際の条件として、国際規格より高度な内容を規定した自社のStandardsへの適合を厳格に求める。たとえ開発途上国の生産者が国際規格に適合した原料や製品を生産していても、自社のStandardsに適合していなければ購入しない。Private Standardsの多くが安全性などを理由として食品分野にあるが、その他の分野でも、例えば、米国にはSA8000というPrivate Standardがあり、開発途上国の生産業者が人権や子供の権利を守っていることを求める。米国だけではない。英国には、WRAPという繊維製品に関するPrivate Standardsがある。これらは新たな技術的貿易障害だ。しかし、WTOは、これは私企業間の取引の問題だと言ってとりあげようとしない。」

 そんな会話をもった後で、帰りの飛行機の中で何気なくFinancial Timesを見ていたら、同様の問題が記事となっていてびっくりしました。そこには、"Private Standards"という用語こそ使われていませんでしたが、世界のflat化が進み、企業のサプライ・チェーンが国境を超えて広がっていく一方で「企業の社会的責任(CSR: Corporate Social Responsibility)」に対する消費者や企業経営者の意識が高まり、これに応えるために企業が設ける原料や部品の調達基準が国際貿易の新たな障害となりつつあるという記事です。

 これは、確かに難しい問題です。私企業間の取引の問題と言ってしまえばそれまでですが、私企業の行動が、国際貿易のルールの有効性に疑問符を付け始めている問題ともいえます。これまで政府間の合意によって紛争処理のルールを含む貿易活動の枠組みが作られ、時おり貿易摩擦が政治問題化することがあっても、国際貿易のルールは一定の機能を果たしてきました。しかし、そうした既存の枠組みでは処理できない問題が起き始めている。ただ、考えてみれば、こうした問題は決して新しい問題ではなく、国際金融市場におけるヘッジ・ファンドなどの行動や、さらに振り返ってみれば、1970年代に問題とされた巨大多国籍企業が開発途上国に及ぼしてきた問題など、私企業が国際金融市場のルールや一国の経済運営などの公共政策に影響を及ぼしてきた先例は既に山ほどあるのかもしれません。

 しかし・・・、さらに、しかし、と思うのですが、世界経済のflat化に伴う最近の私企業の活動の国際的な広がりは、これまで長時間をかけて国際間で作られ、世界の経済や貿易の根幹のルールの効力にも深刻な影響を及ぼし始めているという点で、国際社会の様々な統治の仕組みに新たな課題を突きつけているのではないかと思えてなりません。

 そういえば、今回のISO総会で「国際標準と公共政策」といったテーマを掲げ、持たれたオープン・セッションで、Yale大学のKoppellという准教授が面白い議論をしていました。それは、「公共政策」と呼ばれる政策には多様なものがあること、そして、「公共政策」の政策決定への参加者、意思決定プロセスが、政策によってまちまちであることについての議論です。

 一般的に言って、各国の国民や企業などの法人の権利や義務、安全に関わる国際間の約束は、各国政府代表をメンバーとする国際機関によって、多くの場合、全会一致による合意が図られます。合意形成に関する採決規定が存在する場合でも、よほどの例外的ケースを除いて、そうした合意の形成を図ることが追求されます。(その最大の例外は、国連安保理でしょう。)しかし、国際間の約束を実際に履行するために必要となる技術的なルールづくりや、その他の様々な「公共政策」の分野では、合意形成への参加者、合意の形成手法、そして、ルールづくりにあたる国際機関の統治方法は、ルールの適用分野、ルール作りに当たる国際機関によって極めて多様です。

 例えば、国際貿易に関する基本ルールは、各国政府の代表からなるWTOによって政府間合意として策定されますが、その政府合意の一つ、WTO/TBT(技術的貿易障害の防止に関する協定)によって、実質的に国際貿易ルールの一部として機能するISOの国際規格は、関係する企業や私的団体の専門家によってその原案が作成され、最終的には、民間の標準化機関(米国ANSI、英国BSI、ドイツDINなど)と政府や政府関連機関の標準化機関(日本JISC、中国SAC、シンガポールSPRINGなど)などが混在するメンバー間で投票を行い、一部に反対があっても採決規定に従って、国際規格として承認されるかどうかが決まります。また、企業会計に関する国際ルールは、企業経営に留まらず、一国の経済運営にも大きな影響を及ぼしかねないルールでありながら、純粋の民間機関によって決められています。

 このように国際ルールづくりや運営が簡単に定式化できないほど多様な形態になってきた背景には、ルールの適用範囲となる分野の技術的性格などから、「私」の分野の専門家の関与と貢献を得ることが効率的かつ効果的であったことや、歴史的経緯、場合によってはルールづくりに当たる国際機関の組織統治上の要請など、さまざまな事情や経緯があったのだと思います。

 そうした事情や経緯は十分に尊重する必要はあるものの、ここまで「私」の利害が「公」の分野のルール作りやルールの運営に影響を及ぼすようになってくると、特に、国家における意思決定の場合と異なり、統治機能が十分に整備されていない現状の国際社会においては、国際ルールに関する「私」の関与のあり方を再考することが必要ではないかと思います。

 ただ、このように書くことについては、「公」が「私」に優る価値といえるのか、あるいは、そもそも「公」と「私」を二分法的に考えること自体が適当なのかといった、もっと根本的な点についての考え方の整理が自分の中で出来ていないので、私自身、正直言ってためらいがあることも併せて記しておくべきでしょう。

 この問題をめぐる「公」と「私」の関係に関する考え方について、そうした未整理な点があることは自覚しつつも、国家運営や国際ルールにも影響を及ぼすようになった企業には、少なくとも「公」の意識とその意識に立った企業統治が求められると思います。国家統治の仕組みには、まだまだ改良、進化していくべき点があることは事実ですが、国民の生活に影響を及ぼす問題について国家の意思決定を行う際に担保すべき、情報の公開、意思決定への参加、意思決定手続き、意思決定のルールなどについては、相当に公正で厳格な仕組みが整っています。

 他方、それに比べて(それと同等であるべきだなどと主張するつもりはありませんが)私企業の統治ルールは、国民から見れば、これらの面で相当に甘い。そもそも、私企業の活動が国家運営や国際ルールへ大きな影響を及ぼす事態が生じるなどということは、経済主体として私企業に期待されていた役割の想定外のことだったのでしょうから、こうした問題が生じているのは仕方のないことかもしれません。

 しかし、私企業の影響がここまで大きくなってくると、こうした状況を全く放置してよいとも思えません。何か、それこそ1970年代の「新世界経済秩序」論のようになってしまいましたが、この問題については、もっと詰めて考えるべき点が多々あるように思います。

 ところで、ISOで行われている国際標準化活動のホット・イシューの一つは、先ほどのFinancial Timesの記事にも出てきたSR(Social Responsibility)(*i)に関する国際規格づくりです。2009年の規格発行を目指して、産業、消費者、労働組合、その他のNGO、政府、学界の関係者等の参加のもとで、現在、熱心に国際規格案の検討が進みつつありますが、これはPrivate Standardsの問題をどう扱うことになるのでしょうか?

 CSRまたはSRの概念は、グローバリゼーションへのアンチ・テーゼというか、グローバル化する世界を律するための手段として生まれた考え方との説があります。つまり、企業活動がグローバル化する一方で、地球規模の環境問題や安全問題に対する有効な手立てについての国際間の合意づくりがなかなか進まない現状を打開するために、SRに関する国際規格という形で、強制力はないが、ソフトな国際合意を比較的短期間で作り上げ、その国際規格に照らして企業や組織の責任を問い続けるという方法でこれらの問題に対処するために考え出されたものだという説です。こうした手法は、使い方によっては、強制力がなくとも非常に有効な手段になり得ます。

 実際の使われ方がどうなるかはともかくとして、SRの本質的な考え方は、政府の規制や政府間の国際合意を遵守するのは当然のこととして、企業や組織が、自らの社会的責任に照らして、そこで定められた内容や水準以上の行動をとることが必要と考えるかどうかについて、自ら問うことを求めるものですから、SRの観点からは、環境の保護や安全の確保に係る現行の国際合意の内容や水準を上回るPrivate Standardsの適用は基本的に歓迎されるものとなると考えられます。つまり、SRに関する国際規格はPrivate Standardsを暗黙裡に推奨することになるので、Private Standardsの蔓延を防ぎたい開発途上国からは、反対の声が上がってくる可能性があります。

 しかし、今のところそうした声は聞こえてきません。開発途上国にとっては、SRに関する国際規格は、一方で、既存の政府間のルールで律することが困難な問題の解決する手がかりともなりうるからかもしれません。開発途上国にとって、どちらの対応をとるかという選択は、ジレンマとなるでしょう。

 他方、SRに関する国際規格の下で行動する私企業にとっては、開発途上国側のサプライヤーのことを考えてPrivate Standardsを適用しないのか、あるいは、先進国のユーザーの利益を優先してPrivate Standardsを適用するのかといった判断の是非は、それこそ私企業の社会的責任に照らした行動の結果として社会から評価されることになります。これは、先進国側が直面しかねないジレンマです。先進国側の私企業が、開発途上国のサプライヤーに対してPrivate Standardsに適合できるようにするための技術援助を行うという、双方がwin-winの関係になりうるような立派な対応もあり得ますが、そうした対応を、私企業に対して社会的責任の問題として社会的圧力をかけ、求めていくのも何か変な感じがします。

 Private Standardsをめぐる問題は、影響力を増した「私」の行動に対する現状の国際社会の統治能力の限界を表す象徴的問題の一つとなっていくのかもしれません。


*i この問題は、上述したように当初CSR(Corporate Social Responsibility)と呼ばれていたが、この問題は、様々な組織に関係し、企業に限った問題ではないということで、ISOにおいてはSRとして規格づくりが行われている。

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