第115回 「気候変動問題がもたらす経済社会のパラダイムシフト」


 いま取り組んでいることが、それぞれ大きく展開し始めたこともあって、また、約半年間の長いご無沙汰となってしまいました。その一つは、従来から取り組んでいるエネルギーキャリア関係の仕事ですが、こちらはSIP(内閣府戦略的イノベーション創造プログラム)が始まってやがて3年が経つこともあり、私がサブ・プログラムディレクターを務めている「エネルギーキャリア」では世界でも注目されるようないろいろな成果が出始めています。そのおかげで、成果の社会実装や国際協力関係の構築のための作業が忙しくなってきました。SIP「エネルギーキャリア」の状況については、(社)水素エネルギー協会(www.hess.jp)から出版されたばかりの「水素エネルギーシステム」の3月号(Vol.42.No.1 (2017))に記していますので、ご関心の向きは是非、ご覧ください。

 SIP関係の仕事に加えて、昨年の6月から、海外の化学産業の人たちと仕事を一緒にする機会が増えました。International Council of Chemical Associations (ICCA: 国際化学工業協会協議会 https://www.icca-chem.org/ )という組織のEnergy & Climate Change Leadership Group (E&CC LG)の議長を務めることになったためです。ICCAとはその名前の通り世界各国の化学工業会の集まりで、世界の持続的発展と化学物質の適正なリスク管理という、世界の化学産業にとって重要な共通課題に協力して取り組むことを目的としています。その中でE&CC LGは、エネルギーと気候変動問題への化学産業としての対応のあり方などを検討する委員会です。

 E&CC LGは、年2回開かれる理事会の指示を受け、年に2-3回開催するFace-to-face会合や月一回の電話会議でメンバー間の意思疎通と合意形成を図りながら、必要な作業と活動を進めます。E&CC LGを含むICCA全体の活動状況と活動方針案は、BASF、Dow Chemical、DuPont、Bayer、ExxonMobil、Royal Dutch Shell、Solvay、Clariant、Evonik、三菱ケミカルHD、住友化学、三井化学などの日米欧のトップ化学企業のCEOで構成される理事会(※1)に報告し、理事会での議論を受けて決定されますから、このE&CC LGの議長の仕事は、私にとってはかなり荷が重いものではありますが、他方、欧米の主要企業のトップの方々の考え方などを知ることのできる大変に刺激的な場でもあります。

 こうした中で最近、痛切に感じることは、彼我の化学産業関係者の間の気候変動問題に関する認識の大きな差です。このE&CC LGの会合に初めて出席した際に、「2050年には、化学産業はその使用するエネルギーはもとより、原料も化石資源には依存できなくなることも考えなければならない」という欧州企業関係者の発言を聞いて、びっくりしたことをいまだに鮮明に覚えています。読者の皆さんも良くご承知のとおり、現在、化学産業の大部分は石油、天然ガス、石炭などの化石資源を原料として、プラスチックを始めとする数多くの有機化学品(=炭素を含む化合物)を製造しているのですからね。

 でも欧米の化学企業のトップは、「パリ協定」の発効を世界の経済社会のパラダイムの転回点(”Game changing event”)の具体的な表れとしてとらえ、事業戦略の方向を大きく変えようとしています。

 「パリ協定」では、世界全体の平均気温の上昇を産業革命以前に比べて2℃より十分に低く保つとともに、1.5℃に抑制する努力を追求することが世界共通の目標とすることが合意されました。そして、これまでCO2を始めとする温室効果ガス(GHG)の削減義務を負うことのなかったGHGの大量排出国、中国、米国、インドに加え、サウジアラビア等の産油国、開発途上国を含む、ほぼ全世界の国々がGHGの排出の削減に取り組むことを約束しました。「パリ協定」が合意されたのは、2015年12月のCOP21でのことですが、その合意から11か月で「55か国、かつ、GHG排出量合計で55%の国々の参加」という高い発効要件をクリアして2016年11月4日に「パリ協定」は発効することになりました。京都議定書が合意から発効に至るまでに7年間かかったことを考えると様変わりです。

 この大きな世界の潮流の変化は2009年のCOP15から2015年のCOP21の間の6年間に起きたと言われています。この一つの要因には、2014年10月に気候変動に関する政府間パネル(IPCC)でまとめられた第5次評価報告書(IPCC AR5)で示された以下の【図】が人々に大きなインパクトを与えたと考えられます。この図は、横軸に18世紀半ばから19世紀の産業革命以降に排出された人為的起源のCO2の累積排出量を、そして縦軸には1861-80年平均に対する気候偏差(ほぼ産業革命以降の気温上昇と考えて良い)をとり、CO2の累積排出量と気温上昇の間の関係を示したものです(※2)。



 気温上昇とCO2の累積排出量の間には比例関係があるということと、「2℃目標」との2つのことからもたらされる意味にはきわめて大きなものがあります。それは、「人類が、いつの日にかはCO2排出量をゼロまたはマイナスにしなければ、2℃目標は達成できない」ということです。将来的に「脱」炭素社会へ移行することの絶対的な必要性を示唆しているということになります。

 少し分析的に言えば、「世界の平均気温上昇を2℃未満に抑えるための累積排出量の上限はCO2換算で約3兆トンと考えられるが、2011年までの累積排出量は、既に2兆トンに上っているので、パリ協定の目標を達成するために私たちに残された排出量は約1兆トン。世界のCO2排出量が約330億トンであることを考えると、あと約30年程度でこの上限を超えてしまう」ということになります。ここから私たちのとるべき行動のタイムラインが示唆されます。

 もちろんこうした見方については、例えばIPCC自身が認めているように不確実性があるとともに、米国のトランプ政権に代表されるように、こうした科学者の見解や「2℃目標」の妥当性に疑問を持つ人々がいて、この見方に世界が完全に合意しているわけではありません。しかしそれにもかかわらず、私が大きな潮流の変化が起きていると感じるのは、投資家や企業の経営者といった経済活動の実体を担う人々の考え方や行動に具体的な変化が起きているからです。

 その一つは、企業の経営者の考え方の変化です。先に述べたように「パリ協定」の合意は、世界は将来的に脱炭素社会に向けて変容していく、との国際社会の意思表明でもあると考えることができます。そうであるならば、企業にとってその変容に向けた道のりは、「約束された事業機会」を示す道のりでもあります。実際、世界の主要企業の多くが、気候変動対策に取り組むことは企業活動の制約ではなく、事業機会の拡大につながると考え始めています。こうした企業戦略の変化を反映して、「パリ協定」の目標、すなわち世界の平均気温の上昇を「2℃未満」に抑えるという目標と科学的に整合した目標(Science Based Target :SBT) (※3)を自社の排出削減目標として設定する企業(現在、世界の214社が導入を表明)や、Carbon Pricing などの導入によりCO2の排出が地球環境に与える負荷を費用として内部化することによって、中長期的な事業性の判断に利用しようという企業(※4)等も増えてきています。

 加えて、資金規模で大きなウェイトを占める世界の年金基金団体等の主要な投資家や金融機関も、企業の気候変動問題への取り組みや資産の状況を企業の長期的な成長の可能性を測る指標としてとらえ、投資の重要な判断材料として利用し始めました。企業がこうした「約束された事業機会」を認識し、それをものにするためのしっかりとした事業戦略をもっているか、逆に気候変動問題への対応の遅れが企業の長期的活動のリスクとなる可能性はないか。例えば、化石資源で成り立っていた経済社会で「資産」として評価されていた企業の資産は、社会全体が低炭素社会-あるいは脱炭素社会に向けて変化していく中で本当に「資産」としてとらえておいてよいのか。「座礁資産(Stranded Asset)」という考え方が出てきたのはそうした考え方の一つの現れです。この関連では、「石器時代は石が無くなったから終わったわけではない」という誰かの言ったフレーズ(※5)が思い起こされます。

 このような動きが出てきたことから、投資家や金融機関等が企業の気候変動問題関連で抱える事業・財務リスクや成長機会に関する情報にアクセスすることを可能にするため、金融安定化理事会(Financial Stability Board)は気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD: Task Force on Climate-related Financial Disclosures) を設置し、「気候変動関連の財務情報開示」のあり方に関する報告をとりまとめつつあります。これは、近々報告書として公表される予定です。金融安定化理事会は、金融システムの安定化を図ることを目的として設立され、IMF(国際通貨基金)、世界銀行、BIS(国際決済銀行)、世界の主要25カ国の中央銀行などから成る、きわめて影響力の大きな組織であることから、この報告が投資家や金融機関で今後どのように利用され、企業行動にどのような影響を及ぼしていくかが注目されます。

 しかし、「脱」炭素社会にいたる道は容易なものではありません。私自身も「脱」炭素社会なんていう社会が実際にあり得るのかということも含めて、その実現は果たして経済的にも社会的にも成り立つのだろうか、その実現は不可能とまでは言わないにせよ非常に困難ではないかとの疑いを捨てきれません。しかし、かなりの数の欧米の企業がそういった不可能とも思える社会の実現にチャレンジしようとしていることも、また事実です。

 翻って我が国の状況を見ると、きわめて一部の先進的企業を除いて、こういった認識がどれほど産業界で共有され、具体的な取り組みが為されているでしょうか?私は、仮に欧米の企業が目指し始めている究極の目標、「脱炭素社会の実現」には到達できなかったとしても、低炭素化への対応が経済社会の重要なニーズとして顕在化する近未来の世界においては、そういう目標をもって努力を積み重ねた企業とそうでない企業とでは、その競争力に大きな差がついてしまうのではないかと懸念しています。

 約2年前のこのコラムの第112回「2030年のGHG削減目標について考えること」で「あまりにもきれいな絵姿の目標」の問題点について書きましたが、その懸念が現実のリスクとして顕在化しつつあるように思います。これまで経済産業社会の将来の方向性を示し、日本の発展と成長に一定の役割を果たしてきた国と経済界はどこへ行ってしまったのでしょうか?

 さて、3月21,22日にはE&CC LGの会合があります。明日からブラッセルに1週間、行ってきます。(3月18日記)






(1)世界第2位の化学会社は中国石油化工集団(Sinopec)、第3位はサウジアラビアのSABICですが、先に掲げたICCAの目的達成に向けた取り組みの実績が不足していることから、これらの化学企業のCEOは、まだ理事会メンバーにはなっていません。
(2) この推定には不確実性があるので、それが幅で示されています(茶色は温室効果ガス(GHG)全体の効果、灰色はCO2のみの効果)。
(3) http://sciencebasedtargets.org/ を参照。
(4) Carbon Pricingの導入を推進する国際的枠組みとしてCarbon Pricing Leadership Coalition (CPLC)が結成され、現在、これに世界の151社が参加。https://www.carbonpricingleadership.org/leadership-coalition を参照。
(5) これは長年にわたりRoyal Dutch ShellでVice Presidentを務め、MITのVisiting Scientistである地球物理学者Richard SearsがTED (Technology. Entertainment and Design) というオピニオン・フォーラムで2010年に行ったスピーチで使ったフレーズのようです。



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