第108回 「「STAP細胞論文」が投げかけている問題」


私にはSTAP細胞に関するNature論文の内容の真偽、ましてやSTAP細胞の有無について論じる知識も能力もありませんが、日本の科学研究の信頼性を大きく揺るがしているこの問題をきっかけとして、私の身の回りでも大学、大学院生の科学論文の書き方に関する意識の変化と、大学の教育現場の困惑と混乱を肌で感じることがありました。


直接的にはNatureの論文に係る問題ではありませんが、私は小保方さんが、自身の博士論文の冒頭で米国NIHのホームページに掲載されていた文章を20ページの長きに渡り、ほぼ「コピぺ」していたという報道を聞いて、びっくりしてしまいました。私から見ると、それは博士論文のあり方としてあり得ないことであり、そのような論文で博士号をとった研究者は、「科学者」としての基本的資質すら備えていないのではないかと思ってしまいます。さらに新聞報道などによれば、彼女の博士論文には引用の事実も記していなかったようですから、仮にそれが事実とするとこれはもう論文のあり方として問題外のことです。厳しいようですが、STAP細胞の科学的真偽は別として、そんな博士論文を書くような研究者を私は信用する気にはなれません。STAP細胞の存在についての期待は持ち続けていますが、そんな人に「STAP細胞はあります!」などと言われても信用する気にはなれないし、しかし一方でSTAP細胞の存在に対する期待は捨てたくないしという思いが交錯してビミョーな気分になるだけです。


私が学生のころは、科学論文の価値は、研究によってどれだけ新たな知識のブロックがその分野に積み上げられたかにあると教わりましたし、論文ではオリジナリティが重要であると耳にタコができるほど聞かされたものです。ですから、たとえ脚注などで引用の事実を記していたとしても、20ページにも及ぶ「引用」ということ自体、普通は考えにくいことで、これは「引用」以前の問題、一般に「コピペ」と言われる低次元の行為と言われても場合によっては仕方がありませんし、きちんとした引用が行われていない場合には盗作と言われかねない行為になると私は思います。


ところが、ごく最近、社会人学生として理系の博士号を取得した若い人と話をする機会があり、この問題について話しをしたら、驚いたことに彼女は小保方さんのやった「コピペ」については、私ほど批判的ではないのです。彼女の言い分は、おおよそ次のようなものです:  科学研究には時代背景があり、その時代背景の中で研究内容がどれほど意義のあるものであるかを説明する必要がある。その時代背景については、自分がオリジナルな文章を書き下して記すよりも、権威ある機関の文章や既に評価の定まった説明を引用した方が適切だ…。


確かに彼女の言い分には一理はあると思うものの、それでもなお、私は、特に学位論文などの論文では、自分の言葉で文章を書くべきと思います。もちろん、既存の文献のエッセンスやキーワードなどを引用することはあり得ると思いますが…。おじさんの理屈を言えば、時代背景についての著者の理解や認識の妥当性や的確さは、研究の意義に関わる重要な要因であり、論文の価値、著者の能力や資質は、それをも含めて評価されると思うものですから。


そんな若い人の感覚に触れた後、たまたまある大学、大学院の卒業式後の謝恩会に招待される機会がありました。そこで大学の先生方といろいろ話す機会があり、時節柄、STAP細胞をめぐる騒動とともに、論文の「コピペ」問題が話題になりました。先生方に言わせると今や「コピペ」は学生の中では当たり前のことのように広く蔓延している。しかし「コピペ」を見抜くことは実際上困難だし、防ぐことが出来ない。だから「コピペ」が行われているかもしれないということは、ある程度考慮に入れたうえで論文等は評価していると聞きました。「コピペ」問題は教育現場では深刻な問題で、この問題に関する先生方の悩みには極めて深いものがあるようです。


そのためか、先生方は先生方でいろいろな対策を講じています。その一つが、学生さんに対してレポートは手書きとするよう求めるという対策です。論文の書き方を教えるという意味もあって、教養教育の期間を中心にこうしたことを学生に求めているようです。まあ、それでも人のレポートを写すというのは昔からあることですから、そうした対策によって他人の仕事をそのまま借用する「コピペ」行為を防ぐことはできませんが、手書きとすることによって「コピペ」をすることへの誘惑を減じ、「コピペ」を可能な限り防ぐ効果をねらうということでしょう。加えて手書きで書かせることによって、(仮に他人のレポートを写したとしても、そこに書かれている漢字の練習にはなるだろうということで)せめて漢字ぐらいはしっかりと覚えろよ、という教員側の思いもあるのかもしれません。


でも、私はこのやり方には賛成できません。何故なら私に関して言えば、もうパソコンなしでは文章が書けなくなったからです。私は、文章を書きあげるまでにかなりの語句や文の位置、順序を変え、また、時には文章の構成を大きくいじります。手書きでそんなことをやったらきっと収拾がつかないばかりか、後で用紙に書いた自分の文章が読めなくなるでしょう。特に英語の場合には、文章の見直しは絶対に必要ですし、また、一回、文章を書いた後、Thesaurusを利用して、できるだけ同じ単語の重複使用や同様の言い回しを避けるようにします。こうしたことを手書きで行うことは、私にとってはもはや著しく困難なことです。そういった、自分でもできないことを学生さんに強要することはできません。分かりやすい文章を書くということは、ある意味、自分の頭を整理するという効果もありますから、そういった作業を困難にするということは、自分の頭でものを考えることをも困難にしてしまうのではないかと懸念します。


論文の書き方については、冒頭に書いたように厳しい見方を持つ私ですが、一方で今回の騒動に関連して、私たちはそんなにしっかりとした研究管理はしていなかったと、やや後ろめたい思いを感じるようなこともありました。それは「実験ノート」に関することです。今回の騒ぎの中では科学研究に携わる研究者は、「論文を書く際にコピペをしてはいけない」のと同じくらい当たり前のこととして、「実験ノートをきちんと付けることが基本中の基本」ということが指摘されていたように感じます。しかし正直言って、私自身は大学、大学院を通じて、マスコミで盛んに報道されていたような「実験ノート」は付けたことがありません。


社会に入ってから研究にまったく手を染めることのなかった私でも、大学の研究室にいたときは日、英文誌にフル・ペーパーとショート・ペーパーをそれぞれ一編ずつ、計4編の論文を(教授との連名で)書きましたから、それなりの研究経験と実績はもっています。しかし、それでも報道されていたような実験の行われた日時、実験手順の妥当性、結果の信ぴょう性などに関する証拠となることを意識して実験ノートをとったことは、自慢じゃあないがありません。(もちろん実験の記録は付けていましたが…。)ましてや、改ざんを防止するため実験ノートには余白を残さないとか、記録内容について毎日、監督者から確認サインをもらうなどということなどはまったくしていませんでした。(大体、教授や助教授等の研究監督者の方々が毎日研究室に来るなんてことはありませんでしたからね(笑)。)


実は、「実験ノート」の件が騒がれて以来、私は実験ノートを付けたことがないということは先に記したような思いがあったことから、積極的に口にすることをためらっていました。ところが、ある飲み会で「実験ノート」が話題となり、同僚も「実験ノート」といったものは大学、大学院時代は付けたことがないということが分かりました。何人かの人と話して分かったことは、「実験ノート」のような管理が重要になるのは、特許出願につながるような研究においてのことで、大学や大学院での研究一般に言えることではないようです。(小保方さんは特許を意識して研究を行い、実際にも特許を出願したようですから、きちんとした「実験ノート」を付けておくべきという指摘は正しいと思います。)


まあ「実験ノート」の件については、大学教育の中でこれから社会に出て、実業に近い世界で研究に従事する学生たちにしっかりとした実験記録を付けさせるというねらいで、ややテクニカルに過ぎる部分があるようには感じるものの「実験ノート」をしっかりと作成する訓練をすることは間違っているとは言いません。しかし、レポートを手書きで提出させるというのは、やや行き過ぎであるばかりか、教育面では弊害の方が大きいのではないかと私などは思ってしまいます。


一方で、「コピペ」行為が良くないことというだけでなく、自分のためにもならないことということは、本来は大学教育以前に学生が身に着けておくべきことです。そういった意味で今回の問題は、研究者の倫理問題、科学論文の書き方の問題という以前の、大学の教養教育を含めた中高等教育のあり方というもっと基本的な問題をも提起していると思います。


渦中の理化学研究所だけでなく、大学を含む日本の中高等教育に関係する機関全体が、この問題を我が身の問題ととらえて、教育のあり方を見直す必要があるのではないでしょうか。







記事一覧へ