第5回 テクノグローバリズムとIMSの提案


 第5回産学官連携推進会議所感として、「日本の競争力維持に向けてイノベーション加速に総力結集」を脱稿したのは6月10日、それから早くも2ヶ月強が経ってしまった。出口氏との約束では月2回のペースで寄稿することになっていたので、少なく見積もっても4回はサボったことになる。心よりお詫び申しあげます。

 この間、確かに公私にわたり多忙であったのは事実、特にわが人生で初めて入院・手術となり、最近、ようやく社会復帰できました、感謝。いずれこの闘病生活から考えた医療技術経営について寄稿したいが、先ずは社会生活のペースを取り戻す方策として、4月3日脱稿のテクノグローバリズムに続く内容をお届けします。

T.世界の技術経営プログラム
T−3.テクノグローバリズムとIMSの提案

 「工業製品の製造技術は各企業固有の知的財産であり競争力(コンペティティブ)の源泉、しかし技術が幅広く深くなった今日、一企業ではおよそ対処できそうにも無い競争前技術(プリコンペティティブ)や、競争後(ポストコンペティティブ)の標準化技術については、先進国間で協調して研究開発するべき、結果は発展途上国に移転されるべき」との高邁なテクノグローバリズムの精神を世界的に実現すべく、我が国から初めて世界に向けてIMS国際共同研究開発プログラム(http://www.ims.mstc.or.jp/)を提案したのは1989年です。

 正確に言えば我が国から世界に発信した最初のプログラムは、ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(HFSP)で、1987年のベネチア・サミットにおいて中曽根総理(当時)が提唱したもので、研究目的は生命の根源を追求することとし、世界の最先端の科学を集結した研究助成プログラムで、G7、EUの賛同を得て、1989年に創設され今日も継続されています。 HFSPは我が国が研究資金の主拠出国となって実施している研究助成制度であるのに対して、IMSは、研究開発資金は参加国の自己負担で、かつ参加国の産学が参加して製造技術に関して国際共同研究開発する仕組みで、この点がHFSCとは根本的に異なっています。



 IMSプログラムの発起点について思い起こしてみると、1988年に通商産業省の機械産業課内(伊佐山課長、現日産自動車副会長)に、FAビジョン懇談会(吉川弘之座長)が設置され、我が国の対米貿易出超に対するバッシングを如何に回避すべきかが議論され、提言として、我が国は技術を積極的に公開し、新技術開発についても国際的に協調して進めるべきこと、そのため日米欧による次世代製造技術国際共同開発機構の設置を提案したのです。それがIMS(Intelligent Manufacturing System)の始まりなのです。翌99年8月の暑い盛りに国際ロボット・FAセンター内(現製造科学技術センター)にIMS検討委員会幹事会(古川勇二座長)が設置され、連日の議論を重ねて9月の親委員会(吉川弘之座長)に概要を報告したのです。因みに幹事会を担当された梅原総括班長は米国公使を経て現在は仙台市長、稲垣技術班長は後に地域技術課長時代に産業クラスター計画を共に進めることになったのです。

 バタバタっと議論を取り纏め、IMSプログラムパンフレットを印刷したのは11月、今からするとその内容は度肝を抜くものでした。日米欧の産学が共同して次世代製造技術開発を実施する、10年間で総予算1500億円(ドル150円と換算してビリオンドルプロジェクトと呼称)、その1000億円を日本が負担する、共同研究開発集中センターを設置する、最後に古川名でコンソーシャムに参加した機関は新規知的財産を無償で商業化に利用できる、などなどです。

 これを500部担いで幹事会のメンバーなどを引き連れて米国のエネルギ省LLL研究所(サンフランシスコ地震の直後でベイブリッジが渡れず遠回りして行きました)、 NSF,MITなどで参加を要請、ヨーロッパに回りEC本部、英国のDTI(商務産業省)、フランスのMI(産業省)などで演説(まさに演説でしたね、僕も未だ40代後半の世間を知らない一教授、相手は局長さん達でしたから、議論というより持論を一方的にまくし立てただけ)。相手の感触なんて全く分からなかったですよ、いろいろ質問もされましたけれど、多分しどろもどろだったでしょうね。印象的だったのは未だエレベータも動かない状態の新装EC本部で、13局長のカーペンティエル氏、局長代理のカディウ氏ほか幹部数名が懸命に僕の話に耳を傾けてくれたこと、ECでもBRITE,EUREKA,ESPRIなどの先行する国際プログラムがあるから、それらを参考にIMSプログラムも検討し直すべきこと、特に集中研究開発センターを設置するのではなく、既存の分散施設を統合すべきことなど具体的な指摘を受けたことでした。旅の最後はパリでしたが、ムール貝や牡蠣で白ワイン乾杯・泥酔したのは当然の帰結でした。

 この間、吉川先生や通商産業省の関係者などが欧米関係者と相当に根回しをされていたと思います。特に米国に対しては、ロックウェルインターナショナルやユナイテドテクノロジなどの有力製造業がパートナーとなるべく交渉を重ねてきました。僕がSME(製造技術者学会)の日本支部長であったこともあり、アメリカ側のIMS事務局をSMEにお願いすることで話もまとまりかけていました。 年が明けて'91年2月には国内でIMS参加企業を募集開始、会費100万円と聞いて結構高いのだなと思ったのですが、実はこれは月会費でして年会費では1200万円、ホント、びっくりしました。それにも拘わらずトヨタ、日産、ホンダ、マツダなどの自動車、東芝、日立、三菱などの電気、清水、竹中などのジェネコン、TEC,日揮、千代田などのプラント、ファナック、マザック、マキノなどの工作機械といったわが国を代表するそうそうたる製造企業80数社も集まったのです。未だバブル経済の真只中、製造企業もそれなりに余裕もあり、また通商産業省がタクトを取る国際協調政策なのだから乗って損は無かろうとの判断もあったのでしょう。

 並行して国家予算を10億円以上投入することを内定、民間費と合わせて20億円以上の91年度予算で国内外から研究を公募開始したのは2月でした。4月には国内から90件程度、海外から20件程度のプロジェクト提案がなされ、これらをどのように評価・統合してプロジェクト採択に進めていくかの重要任務が私に回されてきた。まさにIMSプログラムは順風満帆の好スタートを切ったかに見えた。しかし現実はそうは甘くなかったのです。{了}