第77回「盟友ビル・ウエスタマンとの30年を偲ぶ」



我が事務所の筆頭ネームド・パートナーであり、盟友でもあるビル・ウエスタマンが新年早々の1月3日に急逝した。享年62歳という若さであった。

ビルはこの一年間位、片足を悪くして歩行用スクーターに片足を乗せてオフィス内を歩いており、かなり痩せてやつれてはいたものの、激やせと言えるほどではなかったから、我々にとっては寝耳に水に近い驚きである。


ともあれ、今年の1月1日からオブ・カウンセル(顧問弁護士)になったように、ここ1、2年はスローダウンし、経営にはあまりタッチしていなかったので我が事務所の業務体制には大きな影響はないことはせめてもの救いである。


いずれにせよ、私とビルの付き合いはちょうど30年になっていた。


1984年に17年間働いた特許庁を退職して、アームストロング・ニカイドー・マーメルスタイン・クボーチェック(ANMK)法律事務所に就職した時に、最初に入った私のオフィスはビルとの相部屋であった。二つの机は向き合い、その間を高い本棚で仕切っており、私が部屋に入るとビルが本の間から私をそっと見た顔付きは今でも鮮明に覚えている。やがて彼は正直、真面目、実直そのもので、人と争うことは考えられない性格であることも直ぐ分かった。従って、本の間からの顔も「これが日本人の新人の奴か」という蔑む顔付きではなく、「やあ、よく来たな」という童顔そのものであった。


私がANMK法律事務所に就職したのはジョージ・ワシントン大学への政府留学時代に知り合ったニカイドー弁護士(日系三世)の縁があったからであるが、同弁護士からは、「白人弁護士には気をつけろ。奴らは使うだけ使ってから切り捨てるからな。」という自身の経験からくるアドバイスを受けていたが、ビルと付き合い始めてから、「それは白人弁護士によっては違うのではないか」と再考させる効果があった。


聞くと、ビルは私の1ヶ月前に就職しており、我々はほとんど同期という関係であることに気がついた。彼は酒もタバコもコーヒーはおろか、薬さえも一切手につけない謹厳実直な性格であったが、その主な理由は彼が信仰する宗派によるものでもあることを教えてくれた。それでも、修道士のようにくそ真面目というのではなく、趣味はグライダー、モーターボート、カーレース、サッカーとあり、アップルパイを作るのが上手で結構多趣味でもあった。彼の家ではよくホームパーティを行っていたが、彼はオレンジジュースかミルクだけ飲み、私やゲストはビール、ウイスキーを勝手に飲み、それでもビルは気にせず、どうぞご勝手にと和気藹々と楽しむ順応性があった。


やがて、アームストロング弁護士はパートナーのニカイドー、マーメルスタイン弁護士達と経営方針で衝突し、私とビルに、「一緒に分裂しよう」と持ちかけ始めたが、「我々は賛成できない」とずっと拒否してきた。私とビルは彼らの仲を何とか取りまとめるように努力したが、彼らは「この問題は我々の個人的問題だ。君らはタッチしないほうがいい」と拒絶され、ニカイドー氏は「ここはアメリカだから自分の好きなように人生を決めろ。私に遠慮することはない。」といわれた。そして、彼らの仲はあまりに悪くなり、結局仕事に差し支えるようになってから、私とビルは「ここまで来るなら分裂しかない」と同意するに至った。こうして、ANMK法律事務所は分裂し、1992年にアームストロング・ウエスタマン・服部(AWH)法律事務所となった。


AWH法律事務所になった時は実質的に老練のアームストロングが事務所の経営を行っていたが、ますます自分の思い通りの運営を始めてどんどん老害化問題が生じ始めた。若い弁護士達はAWH法律事務所の将来に憂い始め、「何とかしてくれ」と相談し始めた。私とビルは事務所の運営の民主化のために、アームストロング弁護士と交渉を始めたが、彼は「ここは俺の事務所だ。嫌なら辞めて出て行け。」の一点張りであった。こうして、2003年に私とビルと他の15人の弁護士は分裂せざるを得なくなり、今のウエスタマン・服部・ダニエルズ・エイドリアン(WHDA)法律事務所を作ったのである。(この2つの法律事務所を作った本当の経緯を説明すると優に2、3冊の本にはなるが、それは現在執筆中である。)


アメリカでは先に法律事務所に就職すると常にシニアになり、またアメリカの法律事務所というイメージをより鮮明に出すためにも、新事務所はウエスタマンの名前を先に出すことにした。その時、ビルは何度も「サンキュー、サンキュー」と繰り返していたが、私にとっては名前の順は大きな問題ではなかった。


WHDA法律事務所の設立後は私とビルにとって実質的に初めての経営ともいえた。しかし、我々は、私(そして木梨、吉崎)は日本のクライアント、ビルは事務内部経営、ダニエルズは訴訟、エイドリアンは出願業務を主に分担し、この4人のチームワークは絶妙であった。最初の数年間は伸るか反るかという緊張感があったが、ピリピリする事務所を和ませたのはビルの人柄に負うところが大きかったろう。そのためもあって、事務所の結束力は強く、非常に順調に発展し、今は全米で20番目くらいの特許法律事務所となっている。日本人アメリカ弁護士・弁理士も更に中村(剛)、中村(義哉)、井手と増え、アメリカ人弁護士達と和気あいあいに仕事をしている。ニカイドー弁護士のアドバイスが杞憂であったことは嬉しい誤算である。


車好きのビルは、一時、6台の車を所有していたため、ガレージが5つある大きな家に住んでいた(彼はよくガレージに家が付いているんだ、と言っていた)。ビルは健康維持のためと行って、7〜8年前からテニスを始めた。私はこれでビルもかなり健康でいられるなと喜んでいた。しかし、ビルは2年位前から足の具合が悪くなり、やがて折角始めたテニスも出来なくなり、仕事をスローダウンし、オフィスの経営もほどほどとなっていった。そして昨年、ガレージ5つの家を出て、タウンハウスへ移った。


昨年の夏頃からよく私の部屋に来て、「ちょっと足は不具合だけど日本へ出張に行くべきかなあ」と聞いてきたので、「足の具合次第だろう。ただそろそろ仕事や人生のスローダウンするならそれを報告することもよいかもしれない。ニカイドーさんやマーメルスタインさん達も引退する晩年はスローダウンの報告に行っていたはずだ。」というと、「うん、実はそうすることを考えているんだ。まあ、足はその内良くなるさ。」と言った。


しかし、足の具合は改善しなかったようで、11月中旬に「やっぱり、ちょっと無理なようだ」といって12月の日本出張を取りやめることになり、更に、「僕は2015年からオブカウンセルになって、週に3、4日働く程度にするよ」といったので、私も「そうか、とにかく体をゆっくり休めてくれ。クライアント達にはスローダウンすることを手紙で説明すればいい。春になって回復すればその時行けばいいんじゃないか。」と話し合っていた。


歩行器のビルを見るのはつらいので、これからビルがゆっくり仕事をして残りの人生を楽しんでくれればと考えていた矢先の悲報であった。数年後はどうなるか分からないとは考えていたが、これほど急展開になるとはビル自身でさえも考えてもいなかったのではないか。


奥様からは、「何故、どのように永眠したかは本人の意思を尊重して申し上げないことにします」と伝えられた。確かに本人は足の悪い理由は我々に一切教えてくれなかった。他のパートナーから「ケンになら話すかもしれないから聞いてくれ」と何度も頼まれ、聞いてみたが、彼は「これは個人的な問題だから」というだけで話してはくれなかった。こういうように、本当に優しい男であるものの、意志の強い面もあった。


二人三脚を30年間行ってきた相棒を突然失うのは何ともつらい。しかし、今のWHDA事務所には30人の弁護士と60人の事務員がいる。WHDAはまだ残り、発展しなければならない。ビルのように誠実で実直に生きるのは易しくはないが、我々はせめてその志だけでも継いでWHDAを支えて行くのが彼へのはなむけなのだろう。合掌。



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