第75回「日本出張あれこれ」



 出張にはハプニングがつきものだが、最近の日本出張も正にその典型的な例だった。


 アメリカでは航空券はアメリカン・エキスプレスのポイント(米国特許庁料金はアメリカン・エキスプレスで支払うことができるのでポイントは多大となる)か、マイレージによってフリービジネスクラスチケットを入手することが多いが、時期によっては希望期日のチケットを入手するのは難しい。そのためこの、10月の日本出張ではワシントンDC/成田間の直行便のフリーチケットはなく、結局、行きはシアトル経由、帰りはトロント経由ということになった。


 日本での仕事のほとんどは講演なのでそのプレゼン資料の準備のため機内でいつも10時間位は仕事をしなければならならない。直行便なら13時間あるので問題はないが、乗り次ぎだと時間がぶつ切りになるので果して十分仕事が出来るかを確認することも1つの目的だった。可能であれば今後の出張のチケット手配に余裕が出る。


 まずダレス空港の全日空カウンターでチェックインし、大きなスーツケースは成田空港でピックアップすることにし、書類を詰め込んだキャリーバッグは機内持ち込みにする。キャリーバッグはちょっと大きいが国際線の飛行機ならいつも問題なく持ち込める大きさである。これに書類が一杯入っているからとにかく重い。


 シアトルまではユナイテッド航空だからそこのゲートカウンターに行くと「キャリーバッグの幅が数センチオーバーするので預けろ」という。ユナイテッドの国内線飛行機は若干小さいのでいつも言われることである。そこで、シアトルまでの5時間30分の間に使う書類を取り出してキャリーバッグをカウンターに預ける。キャリーバッグにはシアトルから成田までの10時間30分の間に用いる書類を入れてあるが、ゲートで預けた荷物はいつも飛行機から降りるとドアの外で受け取れるのでシアトルで取り出すことができるはずだ。シアトルまでの飛行は順調で仕事も十分でき、まずまずであった。


 シアトル空港で降りるときにスチュワーデスに「キャリーバッグは通常通りドアの外で待てばよいのか」と聞くと「バッゲージクレームのベルトコンベアのところまで行け」という。いつもと違うなと思いつつ、とにかくベルトコンベアのところに行ったが、色々出てくる荷物の中で私のキャリーバッグが出てこない。15分くらい待って、これは何かおかしいとバッゲージクレームのカウンターのところへ行き、クレームタグを見せ、「どうなっているか」と聞くと、2つのクレームタグを見て係員は「あなたの荷物は両方とも成田ピックアップになっていますよ」というではないか!


 冗談ではない。今までゲートカウンターで預けた場合は必ず飛行機のドアの外で受け取ってきたのに、どうもユナイテッドのゲートカウンターの係員は変に気をきかせてキャリーバッグもシアトルピックアップでなく成田ピックアップにしてしまったらしい。これではシアトルから成田までの10時間30分の間の仕事のための資料がないことになる。


 こんな時間の無駄はしたくない。日本滞在中での講演は10回位あり、これには同僚のアメリカ人パートナー弁護士も一緒なので(但し別便で行く)、彼らのプレゼンのパワーポイントを翻訳しなければならない。ほとんどが最近の最高裁判決の要約だから判決の内容を十分理解していなければプロの翻訳家でもまずまともな翻訳はできない。それほど短くまとめた判決文の翻訳は難しい。これは私がやるしかないのだ。


 そこで成田行きの全日空カウンターへ行き、積み替え中の荷物の中から私のキャリーバッグを取ってきて欲しいと頼む。アメリカ人係員は、「積み替え時間は1時間しかないし、そんなことはしたこともないし、できるはずがない」という。私はしつこく「何とかしろ」と要求したが、彼はできないというだけで、けんもほろろだ。


 その側に日本人女性の係員がいたので、彼女に事情を相談したところ(彼女がスーパー美人だったから相談したわけではないが…)、彼女も始めは「ちょっと無理です」と言っていたが、やがて同情して何とかしたいと感じたのかどうか、大男のアメリカ人上司と相談し始めた。上司が私のところへつかつかと来て、「ミスターハットリ、こういうことはしたことがないがとりあえずやってみよう。2つの荷物のうちどちらが必要なのか」と聞く。しかし、2つのクレームタグの用紙を見ただけではどちらがスーツケースでどちらがキャリーバッグかわからない。そこでキャリーバッグの形状と色を説明したところ、彼は「オーケー、一応探してみよう。45分したらまたこのカウンターに来てくれ、但し、保証は絶対出来ない」という。確かに何十、いや何百とあるキャリーバッグのタグを照合しなければならないから大変な作業になるのだろう。ただ、形と色を伝えたので、多少の手がかりにはなるはずだが。それでも、日本人ならともかくアメリカ人にこの作業を要求するのは無理かもしれない。45分後というと乗換えまであと30分くらいしかなくなる。しかし、これしかないかと考えて待つことにした。


 近くにあった椅子に座り、オフィスに電話したり、emailをチェックしたりして時間を待ち、30分もすると、それ以上待っておられずカウンターへ行ってみた。日本人女性係員は、「すみません、まだ上司は帰ってきていません。でも見つからないという連絡もきていないですし、まだ時間はあるのでもう少し待って下さい」と親切に説明してくれる。この点は日本人係員のいいところだ。まだ約束の45分は経っていないからしょうがないかとイライラしながら待つが多少は心は癒される。


 そしてそれからきっかり10分して大男の上司がドアから入って来て、私を見てにやりと笑った。右手には私のキャリーバッグを引きずっているではないか。「ありましたよ、これでしょう」と彼は快活に言う。これほど努力してくれるアメリカ人係員にはめったにお目にかかったことはなく、本当に彼は頼もしく見えた。


 いや、助かったと私は2人に何度もお礼を言ってキャリーバッグを運んで足早にセキュリティーチェックを通過し、全日空のゲートカウンターへ走って行き、何とか成田行き便に間に合った。機内で流れ出る汗を拭きながら同僚パートナー弁護士の60ページの英文プレゼン資料を出す。その内容を咀嚼しながら英文中の空いているスペースに翻訳を書き込む。各スペースに入る字数は10字くらいが限度だから、要約した日本語表現が難しい。結局その翻訳作業は成田到着寸前にやっと終了し、約9時間かかったことになる。


 しかし、手書きの汚い字だからこれをタイプアップしなければならない。ニューオータニにチェックインするとまずフロントデスクで60ページの資料をワシントンのオフィスへファックスで送ってもらう(ファックス代で1万3000円くらいチャージされたが、緊急でしかも講演料でカバーできる場合は早さを優先させざるを得ない。時間が十分あればスキャンを依頼してメールで送ると無料である。)。アメリカはもうすぐ朝だから、秘書がオフィスに来たら直ちにタイプアップして私にチェックのために再送してくるはずだ。部屋に入ると着替えて時差調整のためのテニスをする。相手は昔私が働いていた経産省の比較的若いテニス仲間である。その後、シャワーを浴びて和食レストランでビール、日本酒で乾杯だ。旅の疲れと時差は一気に飛ぶ。


 食事が終わって部屋へ戻るとさすがに疲れを感じて眠くなる。バージニアの自宅を朝5時に起きて、今は夜の11時だから約29時間ぶっ続けで起きて仕事やテニスや食事をしてきたから当然だろう。ぐっすり寝て朝起きると(つまり体は既に日本時間に調整されたことになる)ワシントンDCオフィスからタイプアップしたプレゼン資料がファックスで送られドアの下に届いていた。分厚くなるので10ページごとに分けて封筒に入っている。これもいつものことだ。それを更に訂正し、ワシントンのオフィスに送るという作業を2、3回繰り返す。もう1人のパートナー弁護士のプレゼン資料も同じ作業があるがこっちの方は短かったので楽だった。こうして日本語翻訳付き英文プレゼン資料が完成する。そしてその合間に自分のプレゼン資料も仕上げていくのだ。


 とにかく、こうしてプレゼン資料が完成できたのもシアトルでキャリーバッグを何とか取り出してくれた係員がいたからである。感謝々々、と言いたいところだが、飛行機の乗り換え、特にアメリカ航空機の乗り換えがある時はこの種のトラブルが生じやすいので、今後一層注意しなければならないと、今更ながら肝に銘じていた。


 日本での出来事でもう1つハプニングがあった。それは福島近くの裁判所に赴任された裁判官と食事をした時である。この裁判官は私とパートナー弁護士が100人近い裁判官たちに講演をした時にお世話になった方で、そのお礼も兼ねていた。福島に行ったのはそこにあるクライアントのコンピューター会社の工場見学がたまたまあったからであるが(今までこういう工場見学は若い弁護士に任せていた)、本当は震災後の福島をこの目で見たく、また、それ以上に日本の知らない土地には可能であればどんどん行って日本をもっと理解しなければならないという気持ちが非常に強かったからである。


 そのきっかけは30年前からアメリカに住み始めてから、日米問題を検討する度に自分は日本のことを本当に理解していないと感じるようになったからだ。東京生まれで東京育ちの私は経産省と特許庁で17年働いていたが、地方へ行くことはテニス、スキー、ゴルフの合宿でどこかに行くか、たまにある役所の出張で地方に行く位のみでほとんどなく、実際行ってもあまり興味も持っていなかった。


 しかし、アメリカに住むうちに、自分は日本人だ、もっと日本を知る必要があると強く感じるようになった。その例の一つとして、今年の夏に家族で北海道の函館へ行った時で、見学した五稜郭は、ペリーが来航して下田とともに函館を開港した時に作った奉行所だったことを知って愕然としたことがあった。函館も当初は“箱館”と書いたが、“函”の方が大きいことを意味することから字を変えたという事を知ったのも驚きだった。下田の開港は当然知っていたが、函館も開港し、そこに来る外国人をチェックするために五稜郭が出来たとは…土方歳三の五稜郭占拠と討ち死には刺身のツマのような付け足しの話だったのかもしれない…とつくづく反省させられた。


 こうしたことから、今後の日本出張時には出来るならどこでも行こうと決心していたし、また都心から離れているとしても、日米の長距離を往復する私にとってどうということのない距離でもあるコンピューター会社は福島駅から更にローカル線で30分行ったところにあったが、東北地震や原発の影響は微塵も感じられない明るく安全な様子であったのでほっとした。工場見学が終わると一緒に行った二人のパートナー弁護士は案内してくれた社員の方とともに東京へ帰ってそこで夕食させる手配をして、私は福島のそばの町へ行きその裁判官と料亭で落ち合った。そこの地酒や独特の肴を食べながら(これが楽しい)その地の風土や訴訟の話を聞いている時、突然携帯に電話が入った。


「もしもし、こちらはテレビ朝日の報道ステーションですが、服部弁護士さんでしょうか」

「ええ、そうですが何か?」

「実はノーベル賞を受賞された中村さんのことについてお伺いしたいのですが。」

「どういうことでしょうか。」

「中村さんは青色ダイオードの発明をして会社は多大の利益を得たにもかかわらず報償が無かったとして会社を訴えて200億円の判決を得て、結局8億円ほどで和解しましたね。」

「その通りですね。」

「彼は日本の企業は発明者を大切にしない、報償も少ない、アメリカ企業はもっと優遇すると述べておりますが、それは本当でしょうか?」


 確かに中村博士はそう叫び続けている。特にノーベル賞を受賞したので自信満々らしい。しかし、彼の主張には根本的問題があるといわざるを得ない。


 大体アメリカの企業は終身雇用でなくほとんど契約社員で、就業契約書に発明の対価は数100ドル(小企業)から数1000ドル(大企業)と明記されているので、それ以上の問題にはならない。研究者はそれを承知のうえでサインしているので、契約で拘束されるからだ。世界的な研究者であれば例外的な報償は当然考えられるが、それも就業契約書で決定される。そういう研究者が期待した発明をできなければクビである。


 これに対し日本企業は基本的には終身雇用で、身分と対価(給与)の一生の保証があり、その上、発明の対価の額はアメリカ企業とそう変わりはない。しかも日本では企業の存続が重要なのでたとえ社長でも法外な給与はなく、会社に資金を留保するというのが基本概念なので優秀な発明者だけが特別の対価を得るというのはバランスに反する(アメリカでは経営者の給与が異常に高く、且つ会社を売却して引退する者が多い。その時、投資家も巨大な利益を得る)。


 それに発明者は発明が成功した時だけ高額の報償を要求するのもおかしいだろう。会社に働いている20数年間で本当に成功する発明はほんのわずかである。ほとんどは研究費の使い捨てになる。それではその損失は発明者も負担するかというとそれは絶対ない。儲かるときだけ報酬を受けて、損した時は会社の責任では論理に合わない。それに会社が利益を上げるのは会社全員の総力の賜物である。であれば、他の営業や工場の人々でも同じように報償を与えるべきであろう。そうすると収拾が付かなくなる。


 中村博士はアメリカは起業家に投資する風潮があるが、日本にはないといっているが、それは確かにそうである。であるから、会社に不満な研究者は会社を退職するか(中村博士もその通り退職した)、そもそも会社に就職せず独自の企業を起こす。それがシリコンバレーだ。しかし、それにはリスクが伴う。本当に成功するのは極わずかである。但し、日本も新興企業や小発明家に投資するスキームを作らないと発展がなくなるのは確かであるのでその点は、今後何とかしなければならない。しかし、それは発明者の報償とは根本的に異なる問題だ。ざっとそう説明した。


 「大変よく分かりました。出来れば今のお話を直接カメラの前でインタビュー録画したいのですが、東京には直ぐお戻りですか」

「戻るのは明朝で、当面スケジュールが詰まっていますが」

「それではちょっと上司と相談して、またお電話しても宜しいですか」

「いいですよ、でも今ちょっと飲みながら食事をしていますが」

「あの、できたら飲むのは程ほどにしていただけますか、又直ぐ正式な電話インタビューをお願いするかもしれませんので」

「OK、程ほどに飲んでいます。」


 と言いながら気にせず地酒を飲み、肴を楽しんでいた。そのためにもわざわざ福島の方に来たのである。裁判官に「すいません食事中に」と謝ると、「いいですよ、先生のご説明は私にも大変勉強になりますので」と彼女は微笑んでくれたのでほっとした。その10分後にそのアナウンサーから又電話が入り、やはり今すぐ正式な電話インタビュー録音が必要ということで裁判官に再び謝りながら、正式インタビューを30分近く行い、9時頃に終了した。裁判官は嫌な顔もせずに見守ってくれたのでありがたかった。その後その電話インタビュー録音がどのように使われたか全く知らなかったが、その夜の10時から始まったテレビ朝日の報道ステーションで流されたらしい。またアメリカに帰ってからも、NHKニュースで流されたと友人から報告があった。


 食後に裁判官にお礼を述べて別れてホテルにチェックインすると何人かの仕事仲間がメールを送ってきており、「君の電話インタビューを聞いたぞ、声で直ぐ分かった。報道ステーションが君の声だけを流して顔写真を出さなかったのは賢明な判断だったな。」とか言ってきた。大きなお世話だと言いたかったが、この歳になると自分の事は良くわかっているので何となく納得していたのも事実である。日米特許問題でテレビ出演したことは前に2回あるが、テレビなのに電話インタビューというのは初めての経験だった。


 ともあれ、本当はもっと福島の原発の状況や地方の話を裁判官からもっと聞きたかったが、一応両方の仕事(?)が出来たという点ではそれなりに収穫があったとも言えた。



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