番外編 日米における憲法解釈問題」



 集団的自衛権は憲法9条に含まれると解釈することが閣議決定された。ジャーナリズムには「なし崩しの拡大解釈」という厳しい評価が多いようだ。


 本来は憲法を改正すべきだというのは正論かもしれないが、一気に憲法を改正するのは問題があまりに微妙すぎて不可能であろう。米国のように憲法自体はそのままにして、その解釈を弾力的に行うほうがはるかに実利的である。そして、解釈では本当に不可能と国民の大多数が察知した時に憲法改正を試みればよいのではないか。


 そもそも今回の解釈に反対する者は、では日本を防衛するために集団的自衛権が必要な事態になった時に、どのように対処すべきかの具体案はあるのだろうか。ただ反対のための反対であるなら時間の無駄になるだけである。


 第二次大戦の反省で日本が戦争アレルギーになったこともあるが、果たして日本はそんな弱腰で国が守れるのか心配になる。最近の中国のあまりに一方的な領海侵犯は目を覆いたくなるものがあり、北朝鮮はいつでも日韓にロケット砲弾を落とすかもしれない。米国は経済的にも軍事的にも相対的衰退は明らかであるので、日本は独立国としての自立性が危うい域を超えており、特に10年後、20年後位の中国の軍拡を考えると空恐ろしくなるほどである。


 日本人の多くはスイスのように中立で平和でありたいと望んでいるのであろう。しかし、そのスイスは国民徴兵制であることを忘れてはならない。国民が軍隊に入ることを義務付けられているからこそヨーロッパの列強の真中で中立を保てるわけである。徴兵制を実施しているのは、中国、韓国、(北朝鮮)、スイス等34カ国くらいあり、特に韓国は良心的兵役拒否権さえもできない。徴兵制を実施していないのは、日本、米国、ドイツ等42カ国である。


 ともあれ、憲法解釈については米国は恐ろしいほど無理な憲法解釈をしているのはご存知だろうか。米国憲法は230年前の建国時に作成された古い憲法なので当然現代社会では問題があるが、とにかく全てを裁判で争う国なので、古い憲法規定そのままにして解釈の仕方で争われてきたから無理があるのは当然である。その中でも特殊な例をいくつか紹介する。


 米国憲法修正7条には「コモンロー上の裁判で訴額が20ドル以上の場合は陪審員の裁判の権利が保障されている」と規定している。


 「コモンロー上の裁判」とは「衡平法上の裁判」以外の全ての裁判のことで、両者の違いは救済措置の違いであり、コモンローの救済措置は損害賠償(金銭)であるが、衡平法上の救済措置は金銭的損害賠償以外の衡平法上(正義公正上)の措置の全て、即ち、差止め、仮処分、強制執行、立ち退き、弁護士費用支払い等の特別救済措置である。損害賠償の評決は陪審員の専権事項で、評決を支持する証拠があると判事は原則として拘束される。これに対して衡平法上の措置は陪審員は関与できず(必要な事実認定をすることはあるが)、判事が全てを決定する。


 そして、米国ではこの憲法修正7条の解釈をめぐってコモンロー上の裁判、つまり、損害賠償をめぐる裁判であれば一般民事問題のみだけでなく、特許問題でも、独禁法問題でも、何でも全て陪審員裁判が権利として確保されると解釈してきた。


 米国では憲法の解釈問題になると、普通は憲法が制定された1779年当時、英国がどのように解釈、運用してきたかを参考にするものである。英国は当時、そして今でも、特許法や独禁法のような特殊な法律的問題は陪審員が入らないに判事公判であるにも関わらず、米国はこの7条の規定を解釈して、いずれかの当事者が陪審員裁判を要求すると権利として陪審員裁判が必ず認められるとしてきた。


 勿論、技術や経済問題に素人の陪審員によって特許問題や独禁法問題を裁かれる米国企業の不満は大きい。であるからこそ最近米国特許法は特許有効性の問題を米国特許庁が抜本的に裁けるように大改正を行ったのである(先願主義もその1つではある)。しかし、裁判問題を最終的には米国市民が裁くという陪審員制度は、米国にとっては理想の民主主義と考えるから、陪審員至上主義は大企業に不満があっても変えられるものではない。否、むしろ大企業という強者を国民が裁けることこそ米国の理想であると考えているのである(日本と異なって、米国の官庁は権限が弱く、優秀な人材が行かないので行政指導力は著しく弱いのでこの点が重要になる。)。


 しかし、理想とは裏腹に、本当はこの陪審員システムは事件によっては憲法違反になる点もあるのである。例えば特許の侵害とか有効性は、特許法では当業者というその技術や特許法に詳しい専門家が判断すると規定している。米国特許庁の審査官は当然担当技術の当業者であるからこそ審査処理が出来る。ところが訴訟になると技術も特許法も知らない陪審員が判断することになり、これは本当は完全な法律違反であり、憲法違反(D ue Process:公正手続違反)ともいえる。


 米国法曹界はその説明として、裁判では当業者である専門家証人が証言し、反対尋問を行い、陪審員はどの専門家証人が正直そうか、正しそうかで判断し、それは反対尋問での専門家証人の応答を見ていれば判断できるので問題はない、と説明するがこれは詭弁と言わざるを得ない。


 イギリスでは特許問題のような専門家知識を必要とする問題については陪審員裁判は許可していないから米国憲法もそう解釈できなくはないはずであるが、米国では陪審員裁判は人民を主体とする民主主義にとってはあまりに重要であることから陪審員裁判は絶対的権利と杓子定規に解釈するのである。


 他の例では、米国の高速道路では連邦高速料金はせいぜい1、2ドルくらいで、日本のような高額の料金は絶対に取らない。理由は高速料金を高くすると貧乏人は旅行が出来なくなるので、人の移動・旅行権(right to m ove or travel)、が奪われて憲法違反になるからである(第2次大戦でキャンプに入れられそうになった日系米人に関する最高裁K orem atsu判決)。しかし憲法には移動権なる規定はどこにもない。移動権は憲法第4条2項に、「人は市民としての特権と免除権を有する」という規定があり、特権の1つには何処でも自由に住める、移動できる権利があるはずだと最高裁が解釈して判決したためである。この解釈で行くと、「市民としての特権」には、何でも入ってしまうのではないか。


 このような解釈は連邦政府だけでなく州政府でも同じである。ダレス・アクセス高速道路はバージニア州政府高速道路だから途中で降りると多少の料金を徴収するが、ダレス空港(連邦政府機関)に行く時は無料である。これは、州政府は連邦政府に対して税金を徴収できないという憲法6条2項の「連邦政府優越事項(suprem acy clause)」の解釈からであるといわれている(同項には税のことは何も記載していないが)!


 もっと身近な例を挙げると、憲法修正1条の「表現・発言の自由」についても、ストリッパーはどこまで服を脱ぐ自由があるかということが最高裁まで争われた判決さえある。これはフィラデルフィア市が条例で、「同市のストリップ劇場ではストリッパーは下は脱いではならない」という条例を出したところ、ストリップ劇場とストリップダンサーが条例は憲法の表現の自由の違反であると訴えた。この問題は、市には治安を守る「治安権(police pow er)」があるのでストリップ劇場をコントロールでき(あまりワイルドにさせると犯罪が起き易くなるので)、それとストリッパーの表現の自由とのバランスの問題であるが、最高裁は、最終的に、程ほどに(?)制約するその条例は憲法違反ではないという判決を数10年前に出している。なお、ワシントンD C は政治・ビジネスの町だからそれほどコントロールする必要がないとして、今のところ全て脱ぐ事が許されている(その内、ダメになるかもしれないので今のうちに行った方が良いかも...)。


 最近の例では、国民皆保険のオバマケアは徴税の性質の疑いがあると最高裁は解釈している!とにかく米国の憲法問題判決を読むとそこまで無理して憲法を解釈しなければならないのだろうか、とつい思ってしまう。


 米国憲法は230年前に起草されたのだから現代社会とその現象に解釈を合わせることは土台無理がある。それでもあれやこれやと無理に解釈して何とかして辻褄を合わせようというのが米国なのである(1919年に憲法に禁酒法を導入した時に、アル・カポネ等による密造酒がはびこり、これはあまりに悪法として、流石に10年後に憲法改正して廃止したが)。


 日本の憲法第9条の「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」を、集団的どころか自衛権にも適用するなら、日本は侵略されたら黙って従うしかないということなのだろうか。内陸なら良いが陸を離れたら一切許せないというのは現代の兵器の発達からするとあまりに時代遅れではないか。もし、日本の国を守る自衛権があるなら、自衛するのに必要な措置は当然取れるはずであろうし、必要な措置は時代と共に変わるのではないか。たとえ解釈を変えたとしても、今の日本は首相や内閣が勝手に戦争を始められるような国ではないと思われるが。


 米国だったら多分そう解釈して運用するだろう。たまに新聞に米国の有識者も「憲法第9条はそう解釈できない」と主張する者もいるらしいが、自分達の国の憲法の法外に近い解釈を知っての上の発言だろうかと考えてしまう。戦争や武力や自衛の定義は時代と技術革新によって変わるものであろう。


 特に中国のように、中国領だと勝手に主張して侵略するのが当然という国があり、しかも激しい勢いで軍拡が進み、更に北朝鮮のようにいつでも日本へミサイルを飛ばす可能性がある隣国がいる状況で、日本は国土しか守れないと第9条を解釈すれば、国を守るどころか国として成り立つか心配になる。


 憲法第9条の解釈をするにあたっては、世界の他国が自国の憲法をどのように解釈しているか、世界の常識も入れて検討するのも一考であろう。


 我々日本人は、いくら米国と安全保障条約があるからといっても米国は日本が自国を守る姿勢を決然と示さない限り、自国民を危険にさらして日本を守ることはないことを認識すべきである。



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