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第6回 日本のプロ野球と陪審制度


 前回の記事で陪審員の評決プロセスを紹介すると書いたが、日本のプロ野球に大異変が生じ、パリーグ球団数を縮小すると決定した後、選手会のストがあり、その後に結局12球団を維持することを決定したという予想外の大展開があったので、これらの動きと陪審員制度は共通するものがあるということを述べてみたい。

●選手会が提案した年俸大幅削減の不思議

 球団経営者は最初の選手会との会合で球団数を縮小する事を一歩も譲らなかった。選手会が1億円以上の選手の年俸を50%まで削減しても良いことを提案してさえである。こういう年俸の大幅削減を選手会が申し出ることは、金が全てに優先する大リーグでは考えられない良心的提案である。

 球団経営者が最初譲らなかった最大の理由は、選手達は球団の経営に素人であり、そもそもその減俸で球団経営が出来るかわからない、この種の問題に口を出すな、選手はプレーに専念していればよい、という固定概念であろう。確かに信じられないほどの犠牲的提案であるが、それで弱小球団の経営が支えられるかは明らかでない。それに合併球団(オリックスと近鉄)にはスタープレーヤーがほとんどいないから高給の大幅引き下げはあまり効力はないかもしれない。

 しかし、しかし、である。こういう年俸の大幅引き下げを含む選手会の提案は球団経営者は考えもしなかったはずである。大体、球団側が言い出したら選手会は飲まなかったかも知れないことは十分に考えられる。選手会にイニシアティブがあったからこそ現実的提案となったのだ。

●素人は本能的に全体の正義公正を捉えることができる

 ところで、これと陪審員とどのような関係があるのだろうか。実は根本的には大変な共通問題があるのだ。

 アメリカの法制度を含む全ての社会システムは国民という素人集団が意思決定に直接、間接関与している。陪審員は確かに特許、著作権、商標の本質的な問題、法的解釈などまるで知ってはいない。これらの解釈はその道に精通している専門家証人が証言し、それを相手側が反対尋問を行なって、どちら側の専門家証人が正直であるか、正しそうだと考えられるかで評決するのである。

 つまり特許や技術を知らなくても、どちらの証人が正直そうであるかは彼らに見分けが付くはずである、ということで陪審員制度が成り立っている。裁判のみならずアメリカの官公庁の手続は素人でも出来るようにマニュアルやガイドラインが実に発達しているのである。

 素人が専門家より優れている点は、詳細なことはともかくも、本能的に全体的な正義公正やバランスの判断ができやすい点である。そして巨大企業や有力政治家でも市民の常識で裁かれることになる。この是非はともかくもこういう人間の英知はたとえ社会がどのように発達しても、重箱の隅で戦う専門家より、賢い英断が出来るのかも知れない。

 アメリカはこういう素人陪審員制度を駆使して、建国以来の200年以上も恐怖政治や軍国主義を擁し、平和国家を保ってきた。アメリカのメジャーリーグでも選手は昔は素人として経営への参画は少なかったものの、現在はその点についても重要な地位を占めているが、これは長年の訴訟やストで築き上げられたものである。

●素人集団は社会を変えるバイタリティーがある

 これに対し、日本のシステムは官公庁や経団連のような高等教育者ないし専門家による意思決定が基本である。国民が意思決定に参加するようになったのは戦後であり、多少開かれた官公庁になったのはつい最近のことである。プロ野球も同じであり、その運営は全て球団経営者で行なわれてきた。経営については選手会は全く無視されてきたといってよい。

 しかし、その球団経営者の判断では12球団を維持できなかったのである。最初の決定には選手会は全く入っていなかった。それは当然に経営には素人であるからである。選手会も球団縮小が確実になり、プロ野球が崩壊し始めると気が付いてから真剣に話し合いを要求するようになった。そしてその内に選手会から思いもかけない大改革案がなされ、世論の支持が出始めると球団経営を根底から考え直さなければならなくなった。

 それだけではない。そうこうしている内に、ライブドアや楽天も参加表明するという助け船が現れ、場所も仙台という新鮮な土地さえ浮上してきたのである。こうして球団経営者は12球団を維持するどころか、新しいプロ野球のあり方への大逆転の結論を出すに至った。今から考えると、もし選手会がもっと早い時期に介入していたら、もっと早くこの案が出たのかも知れない。否、数年前から入っていれば今頃はライブドアか楽天球団を有する6球団のパリーグが出来ていたのかもしれない。

 選手という一見経営には素人の集団でも、球団経営者には考えられない英知とエネルギーがあることが明らかになったといえる。日本の社会制度は政治機構にせよ、行政機関にせよ、裁判所にせよ基本的には全て秀才集団による舵取りである。そこに国民(選手)という底辺が大きな力と英知を出し得る事を示した事件といえる。

 こういう意味で日本の陪審員である裁判員制度が、判事という秀才ではあろうが反面ともすると社会常識に疎い決定者にどのような良い影響を与えるのか今後期待を持たせること示唆したプロ野球ドラマではないか。