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第36回 法律事務所の分裂


 2008年は意外な夜明けで始まった。
 前に勤めていた法律事務所のシニア・パートナーの老アダムス弁護士が1月3日に他界された事である。享年79歳だから、まあ天寿を全うしたといっても良いだろう。彼は一般社会に知られたほどの弁護士ではないが、少なくとも私にとっては、そして日米の特許社会ではそれなりのニュースである。

 4年前にアダムス弁護士の特許法律事務所から分裂して独立し、Westerman, 服部, Daniels & Adrian特許法律事務所(WHDA)を創り、伸るか反るかの数年間を過ごしてきた。老アダムス弁護士の仕事に対する執念、WHDAや私に対する敵愾心は恐ろしいほど強く、最初の2、3年間は水面下で熾烈な戦いがあった。

 彼は朝鮮戦争の時に日本に駐屯し、それから日本が気に入り、独学で日本語を勉強して日本との特許ビジネスを専門とする特許法律事務所をワシントンDCに1970年の頃に作った。まだ、日本の経済・技術があまりアメリカに進出していない頃だったからパイオニア的な慧眼があったといえる(日本の経済が後興したのは朝鮮戦争という特需があったからだ)。

 身長180数センチ、体重100s近くある堂々たる体躯、ペリーメイスン(ちょっと古いか)のような風貌、日本語をそれなりに喋れ、その上、頭も記憶力も抜群に良く、判例をよく勉強し、重要なものは判例集の巻号やページまでほとんど覚えているアダムスは日本ではたちまち人気になった。

 「特許による独占が直ちに独禁法違反でなく、合理の原則が下された最初の判決はいつ頃だったのかな。」
 「ああ、それは1978年の最高裁のNational Societyという判決で、確か最高裁判例集435号679ページだったはずだ。」
と、ぱっと判例の存在を指摘することは結構あった。
 <この弁護士はすごい…>
と思わざるを得なくなった。

 しかし、その彼も70歳近くなるとちょっと様子がおかしくなった。
 とにかく日本が好きで年に春2ヶ月、秋2ヶ月も滞在する。実はその大きな理由は、酒が好きだったこともあり、とにかく浴びるように飲む。
 また、日本人弁護士、弁理士に同年代の酒好きの仲間がいて、彼らも同じようにうわばみだから話が合う。それにとにかく当時の日本人ビジネスマンはアメリカ弁護士を奢るのが好きだったから、アダムス弁護士も「俺は絶大な評価をされている…。」と思い込むのもやむを得なかった。

 アメリカでは実直な奥さんの目が厳しいからそうは飲めない。それでも昼休みにワインの一本はいつもだった。飲んでも若い頃はガンガン仕事をしていたが、糖尿病が悪化し、体力も衰え、次第に酒が足に、そして頭にくるようになった。

 日本出張におけるホテル代、酒代もバカにならないはずだが、いくら使っているかは事務所でも誰も分からない。事務所のアカウント・システムは長年の友人のソフト屋が開発し、それを自身と長年の秘書が完全にコントロールしているので金銭関係の情報の詳細は我々は分からない。それでも事務所は順調に発達し、パートナー全員の収益は悪くはなかったので怪しいと思う人物は居ても反乱は起こらなかった。

 勿論、小さなトラブルはしょっ中あった。
 彼は勢力を拡大するためにも自分の友人の弁護士を次々に事務所に入れた。他のパートナーが反対しても力で押し切って行く。ところが数年すると決まってその友人弁護士はアダムスのワンマン経営に頭にきてケンカして出て行く。

 こういう小分裂は私がこの事務所に23年前に入ってから少なくとも5、6回はあった。それでも2000年の頃には弁護士30人で全米で13番目位の大特許法律事務所になっていた。彼はこういう闘いに勝ち抜いてきたわけだ。

 事務所が伸びた本当の理由は日本人で初めてといわれる米国特許弁護士パートナーになった私の貢献も大きいはずだが、彼は気が付かないか、認めるのが怖いようだった。何しろ日本は世界の毎年の特許出願数100万件の内、40%以上の40数万件を生み出している。そして日米は世界の特許市場のリーダーである。日本人弁護士がこの分野で活躍できるのは当然ともいえる。

 アダムスが衰えるにつれてさすがに若い弁護士から不満が出始めた。折角パートナーになっても事務所の経営は、自分の思い通りにするし、また利益配分もアダムスの配分が圧倒的に多い。パートナーの収入配分はクライアントを有していると圧倒的に有利なのはどこの事務所でも同じである。

 私はアダムスに次いでクライアントの数は多かったから特に文句のあることはなかったが、事務所の運営が旧態依然なのは、競争が激化していく中でとにかく困った。それでも若い弁護士がよく働くのは、それだけが取柄でもパートナーになれるからだ。大事務所になるとクライアントを持たないと滅多にはパートナーにはなれない。
 とにかく、彼らの不満はどんどん募っていく。

 「俺達がこれだけ働いているからこの事務所は成り立っている。しかし、事務所の経営はアダムスのしたい放題じゃないか。それに彼は日本では酒ばかり飲んでいるらしい。ワシントンオフィスで俺たちを管理しているばかりで実際の仕事はしていないに等しい。」
 「この事務所も大きくなったがそれはアダムスのせいじゃない、ケンや我々のおかげじゃないか。昔はともかく、本当に今でもアダムスの貢献はあるのか。」
 「仕事をしている弁護士の貢献が収入配分に反映されないのはおかしい。収入配分方式を変えるべきだ。」
 という不満が続出し始めた。

 彼らは私に団結してアダムスと対決して事務所の経営方式を一変させ、近代化しようという。

 確かにアダムスの若い頃は酒を飲んでもよく働いたが、今は権力の座に胡坐をかいている感じだ。しかも、引退する気配など全く見せない。息子弁護士が事務所に入ったこともあり、息子を優遇するプランをドンドン出してきた。彼を盲目的にサポートする年老いたパートナーは提灯持ちのように賛成する。息子と同年代の弁護士達の不満はどんどん大きくなる。

 私は迷った。
 収入面では不満はないが、経営面では問題があり過ぎた。
 今、事務所のあるビルは築40年位になり古すぎる。大きな特許法律事務所は次々にキャピタル・ヒルに近い新しいビルに移転しているが、アダムスは、「私はこのビルでこの事務所を作った。移転は絶対認めない。」と断言するだけだ。

 このままではこの事務所に秩序はなくなる。今はアル中に近いこの弁護士を支えていいのだろうかという思いが日に日に強くなっていった。日本へ行くと「アダムスには昔、散々おごらされた。今度は君が俺に奢り直す番だ。お前は一体あんな飲んだくれをいつまでサポートするんだ。」と私にいう弁護士や弁理士も結構いる。

 その上、日本から新しい仕事がファックスではいるとアダムスは、「ああ、こいつとは10年前に飲んだ事があるから俺のクライアントだ。」という。
 「しかし、この10年間彼は仕事を送ってこなかったじゃないか。彼が送ってきたのは私と話したからだ。」
 「そんな事は知らん。この事務所では一度クライアントになったら永久なんだ。」と言い張る。
 アメリカにも日本にもこういうシステムを持つワンマン事務所はよくある。

 コンピュータに記録を入れる秘書は、
 「ミスター・ハットリが言う事のほうが正しいと思うけど、私はアダムスの言うとおり入力しないとクビになるから。」
 といってコンピュータ上はアダムスのクライアントになってしまう。

 その内、このアダムスは本当に日本が好きなのか疑う事が色々出てきた。飛行機に乗る時にファーストクラスにアップグレードができないことがわかると、「俺が乗る時は必ずファーストクラスにアップグレードするというのが約束になっているはずだ!」と叫んで某エアラインのカウンターで激しく捲し立てる話を何度か聞いた。アップグレードはその時の都合次第という原則はまるきり頭に入っていない。争われると困るエアライン会社は仕方ないのでアップグレードする。そうするとアダムス弁護士は、益々それが当たり前と増長する。

 アメリカ弁護士が横暴になるのは半分日本が甘やかしていた事も原因になっているのだ(バブル崩壊後は日本企業も大分変わってきたが)。ともあれ、本当に日本が好きならもっと真摯に対応すべきだが、逆に自分は特別の外人というエゴが出ている。

 「これはやりきれないな。」
 と思い始めた。
 「君らが本当に何とかしようと言うなら私も立ち上がる。本当にやる気があるのか?尋常じゃあ改革はできないぞ。」
というと若い弁護士達は皆、
 「勿論、俺達はアダムスに屈しはしない。経営方式を変えるべきだ、近代化すべきだ!」といって気色ばんだ。それから事務所の改革を推進しようとする弁護士グループの集まりが何度もあった。アダムスもその動きに気が付いて、彼は自分にべったりついてくる老弁護士達と会合して対策を練り始めた。

 結局、改革派のパートナーWHDAの4人とアダムス側の4人のパートナーが対立するようになったが、アダムスは「これは俺の事務所だ。経営方式を変えたいなら俺が引退してからにしろ。」といって何も応じない。

 「いつ引退するのだ。」
 「そんなこと知るもんか。俺はまだ十分働ける。」
といって何も進展しない。あまりバカにされるので我々も益々引けなくなる。
 「それなら本当に分裂して俺達は出て行くぞ!」
 「ああ、勝手にしろ。お前らに法律事務所の経営なぞできない!」

 半年以上の交渉で、我々は本当に出て行く決意を持った。
 改革派の中でクライアントを有しているのは、ほとんど私だけだったから果たして事務所が成り立つのか、という不安はある。
 それ以上に心配だったのは米国に24年前に来た時に日系弁護士から「白人弁護士は我々や日本人を都合のよい時に使うが、いざとなるとまず裏切られるから気を付けろ。」と言われた事が頭にあった。果して本当に最後まで彼らはついてくるのか…、という心配があった。

 しかし、争えば争うほど日本を食いものにしているのではないか、と思わざるを得ない老弁護士に対し、たとえ失敗しても日本人としてやらなければならないという気持ちの方が強くなった。

 分裂の交渉をしている間、事務所設立には二人の有能な人材が絶対に必要と探し始めた。その一人はまず、この種の分裂では訴訟になりかねないので法律事務所の分裂を専門に扱うマーク弁護士を雇うことであった。
 事務所改革の最も急進派であったウェスタマン弁護士と私はマーク弁護士と密接に相談しながら分裂に伴うあらゆる問題を想定して綿密な計画を立てていった。

 次に重要なのは新しいマネージャーである。仕事は我々でいくらでもできるが、事務所全体をまとめる有能なマネージャーがとにかく必要だ。何人かインタビューしている間に長年働いた大法律事務所を辞めて新しい小さい事務所で一からやり直したいという50歳位の温厚なブルックス氏に会った。ブルックス氏と何回か話している内にこの人物なら新しい事務所を任せられると、ウェスタマンと私は分裂の数ヶ月前から給料を前払いして新事務所の体制作りを始めた。新事務所のビル探し、コンピュータシステムの手配、組織体制作り等やることはいくらでもある。

 アダムス側も事務所分裂の専門弁護士コリンズを雇って、専門弁護士マークとコリンズ同士でネゴシエーションを行い、必要に応じて我々自身も直接対決しながら事が進められた。最大の問題はアダムスが本当に訴訟を仕掛けてくる恐れがあることだった。彼の事務所はそのままだから全てが出来上がっており、投資の必要はなく、それに現金は唸るほど持っている。こっちは事務所の設立に使う資金さえアップアップだったから訴訟に使う金などは全くない。

 そこでマーク弁護士のアドバイスでワシントンDCのルイス元判事を仲裁者として雇って全てはルイス元判事の仲裁で紛争を解決するという方式を提案した。アダムスは当初、猛反対をしたが、やがて自身が当時のパートナー契約違反をしていたことが判明したので不承不承この案を受け入れざるを得なくなった。また、アダムス夫人からも、もうすぐ引退の年だから自分達の余生の金は使ってはならない、という厳命があったのかもしれない。

 次の問題は、本当に分裂することに気が付いた20数人の若いアソシエート弁護士が、何人こっちに来るかだ。多いほどクライアントに対してこちらが主流の事務所だと伝えられる。分裂の決意を内部表明してから、両サイドがアソシエート達を説得していい人材を自分側に引き付けようとする必死の工作が始まった。彼らにとっては、事務所の将来性や経営の公平性が最も重要なファクターになる。

 WHDA側は、彼らに対し、新しい事務所では公平で、働き易く、もっと平等な収入配分を公正に行うと新事務所のビジョンを説明した。新しい収入配分の方式は全て私が作って、4人のパートナーに説明し、全員が納得した上で採用した案だった。ただ、経営能力が未知数の新しく若い事務所に本当に仕事が来るか、ということだけが心配だった。
 若い弁護士達はこういう配分方式や事務所の経営のあり方はよく理解できないらしいが、それでも今の事務所よりはずっと民主的で公正になる事は本能的に分かっていたようだった。

 一方、アダムス側が若い弁護士達と話すと、ワインをがぶ飲みしながら真っ赤になって、いかに私やその仲間の若いパートナーが恩知らずかという罵倒とグチしか出なかった。その内、若い弁護士達は、アダムスからはもう聞きたくない、という反応を出し始めた。

 こうして彼らのほとんどは我々WHDA事務所側につくことに同意した。結局、我々は17人の弁護士で出発する事になり、アダムス側に残ったのは10人のみだった。分裂を主張しながら最後の瞬間にアダムスに寝返った若いパートナーは一人だけだった。
 「白人弁護士を信用するな…」と言っていた日系弁護士のアドバイスは徒労に終ったのだ。

 それに対しアダムスはクライアントに対して「何人かの弁護士が出て行くが、我々は更に数人の弁護士を雇ったので問題はない。出て行く弁護士は経営の経験が全くない新人弁護士のみなのですぐ潰れるだろう。」というレターを送り始めた。こういうレターは私の友人弁護士・弁理士から「これは本当か」というコメントと共に直ちに私に転送されてきた。

 そこで、<こういうことなら真実を伝える必要がある>と考え、WHDAの17人とアダムスの10人の弁護士の名前を一覧表に記載し、年齢も全て書き入れ、WHDAの平均年齢は約40歳、アダムスの事務所は約60歳という計算結果を表にしてクライアントに送った。WHDAのパートナー達は、「これはすごい!」と狂喜乱舞した。アダムスが激怒するかヒヤヒヤものだったが、事実に対しては訴訟も何もできず、実際彼は何もしなかった。

 新しいWHDA事務所を設立してからは17人の若い弁護士のみならず、事務員のやる気はそれはすごかったが、とにかく大変だったのはアダムスが次から次へと元判事にWHDAは不当な事をしていると問題提起をした事だった。

 例えば、分裂の半年位前から私はそれに備えてコンピュータに強い日本人事務員を雇ったが、アダムスはその事務員の仕事は当時のアダムス事務所全体の仕事のためでなく、WHDAサイドの分裂準備のための仕事だけだったはずだから分裂前までに支払った半年間の給与を払い戻せ、というモーションがあった。確かに彼は私の仕事を主にやってもらっていたが、当時、アダムス事務所があまりに混乱していたためその時のマネージャーは彼にも事務所全体の仕事の一部を手伝わせていた事がヒアリングで分かった。結局、ルイス元判事はアダムスのモーションに根拠はないとして却下した。

 この種のモーションが実に3年間で23出されたが、いずれも嫌がらせに近かったので実質的に全てを却下で退けてきた。しかし、そのためにお互いに訴訟弁護士マーク、コリンズの費用をかなり使っている。つまり、アダムスの狙いは金を取り返えせれば儲けものだったが、できなくてもこうしてWHDAに余分の負担をかけさせ業務に支障をきたせ、ミスを誘発し、万が一ミスが出たらクライアントに金や太鼓で「それみろ、アイツらに経営なんかができるわけない!」と叫ぶ事が狙いだったようだ。

 しかし、アダムスが強硬手段をとれば取るほどWHDAの結束力は強くなり、一丸となって1つ1つ克服し、ミスは軽微なものはあったものの大きなものは全くなかった。

 ところが1年位してとんでもない事件が起こった。
 それはある全米最大の判例会社が、私の毎月書いている日本語の特許判例ニュースは、判例会社の英文要約を直訳した著作権違反であると日本のある出版社に書面を送ったことだった。私は訴訟やライセンス交渉のような本来の仕事以外にも日本の3つ以上の出版社とワシントンDCの商工会に毎月寄稿している。この労力は大変であるが、その特許ニュースを書く事が仕事に色々な形で役に立っている。日本特許ビジネスマンで私の特許ニュースを読んでいない者はまずいないという。

 その出版社は寝耳に水だったのでうろたえ、私にその書面を転送してきたので私が代わって直ちに判例会社と交渉し始めた。
 まず、私のニュースの英訳を入手しているという判例会社に「それを見せてくれ」と要求したが、判例会社は「特権情報で見せられない」と突っぱねてきた。

 「あなたが作った英訳が正しいか私が検討できなければ話もできないではないか。」
 「我々の英訳が正しい事は分かっている。それより君は我々の著作権を侵害している特許ニュースを何年も書いているようだ。」
 「何故何年もというのだ。」
 「我々はそれを知っているからだ。」
 「私の特許ニュースの何件を翻訳したんだ。」
 「とりあえずは問題の1件だけだが。」
 「それで何故何年も著作権侵害をしているというのだ。」
 「それは…、とにかく君が何年も特許ニュースを出していることは知っている。翻訳は1回分しかないが他の特許ニュースも同じようなことは知っている」
 「あなたは日本語が読めるのか。」
 「全く読めない。」
 「では翻訳は1件しかないのに何故何年も行っていると主張するのだ。」
 「…」
 こういう調子で相手は著作権侵害をしている、直ちにニュース掲載を停止せよ、損害賠償を払え、そうしなければ直ちに提訴だ!という事を繰り返すばかりで証拠は何も出してこなかった。

 数ヶ月交渉しても同じだった。
 一応、念のため自分の過去の1年分の特許ニュースを判例会社の英文要約とを全て比べてみたが、要約点は大体同じだが(判例の重要な点の要約は全て同じになるのは当然)、文章全体はまるきり異なっていた。判例会社との対応にはパートナーの訴訟弁護士ダニエルズも付きっ切りで私に協力してくれたが、彼も著作違反など全くないことを確信していた。

 その内に気が付いたことは判例会社の英文要約自体が著作権違反があるということだった。ダニエルズもその点についても全く同意したが安全のためワシントンDCの著名な著作権弁護士にも相談したところ、全面的に同意した。
 そこで判例会社にその点を突っ込んだ。

 「あなたの会社では毎月の判例ニュースは自社で作っているのか。」
 「その通り、我々は何人もの弁護士と契約しているんだ。」
 「ではあなたの会社の判例要約は実は全て判決の切り貼りでしかないことを知っているのか?」
 「切り貼り?」
 「そう。自社で要約した点は何もない。」
 「そんなばかな!我々の要約は全米でも評価されている!」
 「評価は関係ない。切り貼りかどうかだ。切り貼りなのに自社で要約していると偽っていると著作権違反になることは知っているか。」

 ここで問題の判例を会社の要約は、実は元の判決の完全な切り貼りで同社自身が要約した部分は全くないことがわかるよう、判決の引用部分の全てを枠で囲った資料を提示した。
 「あなたの会社の要約の全ての部分はこの枠で囲った部分の寄せ集めだ。これをplagiarism (剽窃)という著作権違反であることはわかるだろう。」
 彼はぶるぶると震えて、「冗談じゃない!こんなバカなことを聞いたのは初めてだ!」と怒鳴りつけるだけだった。

 「貴社が作ったという私の特許ニュースの英訳は何故見せられないんだ。」
 「…実は…英訳の一部を今直しているんだ。」
 「では、その英訳はあなたの会社で作ったものではないのか?」
 「そうではない。」
 「誰かが投稿したのか?」
 「…そうだ」
 「誰だ?」
 彼はしばらくだまっていたが、やがてぽつりと、
 「実は君の前の事務所のパートナー弁護士だ。」

 <やはりそうか>
 これは前から感づいていた事だった。
 判例会社は、弁護士の名前まで言わなかったが、彼の言葉だけで十分以上だ。

 もし、私の特許ニュースが著作権違反ということが本当なら日米の特許業界ではセンセーショナルなニュースになる可能性は十分あった。

 その会合から、1週間後に判例会社から「本件は今回はなかったことにする」という一通の手紙が届いた。逆に名誉毀損で訴えようか、ということを何度も考えたが、ダニエルズは「そんなバカなことをするな。判例会社は巨額の財政を持っている。本当の訴訟になったら勝つ訴訟でも財源で途中でダメになることもある。オスカー・ワイルドも名誉毀損の訴訟をして逆に無一文で死んでしまった。そんなことに時間を費やすより確実に勝ちつつあるWHDAを育てる方が大切だ」と猛烈な勢いで反対され、とどまった。

 事務所の経営とは、仕事を取るとか、弁護士教育するとか、所内の整理をするとかのキレイ事だけではすまないのだ。アメリカで生きていくにはあらゆることに耐えられる精神力と体力が必要となる。通産省時代に堺屋太一らと馬車馬のように働き、アメリカで昼働いて、夜学のロースクールを卒業した私にはその両方の多少は備わっているつもりだ。

 こうした分裂4年後の2008年1月にはWHDAは全米20数番目位の特許法律事務所になった。アダムス弁護士の方は昨年息子の弁護士が親のコントロールを嫌って事務所を突然去り、失望の内に自らも自分の事務所を去り、一人で友人の法律事務所の一室を借りていた。日米で名を馳せたアダムスは、アダムス法律事務所という名もなくなり、ひっそりと他界し、歴史の1ページが捲られた。

 アダムスは最後に敗れたともいえるが、何に対して敗れたのであろうか。
 確かにアダムス事務所は我々が去ってからWHDA事務所の半分位の規模になってしまったが、それでも彼はつい2年前まではアダムス事務所の所長として一線で働いていた。

 ところが息子に去られてから途端にガクッときた。我々との対立は何とか凌いだものの、息子に対しては手の打ちようがなかったようだ。それほど息子が大切だったのだろう。

 その後、あれほど大事していた自分の事務所を去り、一人で事務所設立時代からの秘書と細々と仕事をしていたということは、息子がいなくなった以上は一人になっても案外幸せだったのかもしれない。親としては、息子の独立は一時的にはショックでも、一人前になっていくことを見るのは安堵感があるものである。
 彼は、もしかすると敗れたとは微塵も思っていなかった可能性もないではない。

 この話は4年前の分裂直後にちょっと書き始めたが、当時はルイス元判事を仲裁にしてアダムス側とあらゆることを争っていたので、我々の訴訟弁護士マークが「今は何も書くな。相手は何でもかんでも訴訟の材料にする。時が来るまで待て。」とアドバイスされて4年間中止していた記事である。

*(登場人物はWHDA事務所の弁護士以外は全て仮名)