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第34回 激変する米国特許制度


 米国特許制度は確実に大変貌しつつある。それも恐ろしいほど急激にである。 その第一の表れは米国特許法改革案の下院案H.R.1908がこの2007年9月7日(金)の下院本会議で可決されたことである。

 このH.R.1908の基本的視点は、米国特許制を世界で唯一の先発明主義から世界の残りの全ての国が採用している先願主義に変えるものである(但し、H.R.1908は純粋な先願主義ではなく、先に発明を発表したものが1年以内に出願さえしていれば、たとえその前に出願があっても先の発表者に特許が与えられるという先発表主義的色彩を有しているが)。

 先発明主義は理想的な制度ではあるが実際の発明日を立証する事は研究ノートを十分残し、且つ同僚研究者の証言も必要になるので立証に時間とコストがかかり非常に不便である。それだけでなく、米国出願だけ発明日を基準にして審査され、他の外国へ出願すると米国特許庁での出願日を基準にして審査されるので、同じ発明に対して先行技術がアメリカと他の国では異なるという問題が生じる。 このためアメリカでの特許審査の結果は他の国では適用できず、またその逆も同じである。

 アメリカを除くほかの全ての国は先願主義であるので最も早い第一国での出願日で先行技術も特定されるので、お互いの国の審査結果が参照できることになり、審査の効率、コストも改善できる。このため世界の国々がアメリカが先願主義並行する日を待ち望んでいたが、やっとその日が近づきつつあるということになった。

 同時にアメリカ特許制度では特許侵害に基づく損害賠償の額があまりに高くなるという問題もある。この理由の1つはエンタイアー・マーケット・ルールというアメリカだけといえる特有の損害賠償の計算の仕方があるからだ。  この理論によると、マイクロソフトのウインドウズという巨大なシステムはその中のほんの一部であるユーザーを特定するだけのソフトで特許侵害が判決された時、損害賠償は特許侵害部分のユーザー特定ソフトという微小部分の市場価格で計算されるのではなく、ウインドウズ全体の市場価格で計算されることになる。 幸い旧ウインドウズは昨年直ちに差し止めになることはなく、今年1月に発表された特許侵害のないウインドウズ・ビスタまで旧ウインドウズは使えるという判決が下されたため、社会的大混乱は避けられたが、それまでの間マイクロソフトは巨額の損害賠償を支払うことを強いられた。

 こうしたエンタイアー・マーケット・ルールは特許が本当に基本技術に係るものならともかく、単なる部品特許にもかかわらず何でもかんでも製品全体の価格で計算することはおかしい、という意見が情報産業から出され、その点の改正も今回のH.R.1908の重要な改正点の1つなのである。

 これに対して、発明の開発に膨大な費用と時間のかかる薬品、バイオ産業はエンタイア・マーケット・ルールの改正に大反対し、H.R.1908を阻止するために大きな政治的圧力を議会やホワイトハウスにかけてきた。

 つまり現在の米国特許法改革の戦いは情報産業とバイオ産業の戦いなのである。

 9月7日(金)の下院本会議の様子はテレビのC-SPANで中継されていたので筆者はオフィスで仕事をしながらその様子を伺っていた。H.R.1908の是非に対する投票は午後2時位から始まったが、テレビ画面は刻々と各議員の賛否を民主党と共和党議員に分けながら打ち出し始めた。民主党は情報産業よりなので賛成票のほとんどは民主党議員で、反対票のほとんどは共和党議員という極端な色分けである。  賛否の票の数は非常に拮抗し、時間が経つにつれて賛成票が多くなったり、反対票が多くなったりシーソーゲームである。この票の動きは日米の特許関係者にとっては、歴史の針が動いているほど重要である。しかし、議員の数は民主党の方が20名近く多いので最終的には賛成票が多くなると期待されていた。

 果して、投票が始まってから30分位すると終了し、賛成票が僅かに反対票より多いという結果が出て、議長が「H.R.1908は可決された」と小づちを打って叫んだ。下院H.R.1908が可決された後は1、2週間後に行われると期待される上院の票決を待つばかりである。

 両院の特許法改革案が可決すると、両院案の相違点の調整が行われ統一改革案になり、その後に大統領がサインすると正式な新しい米国特許法が成立する事になる。しかし、ハードルがまだ2つある。

 その1つはホワイトハウスがバイオ産業の圧力によって両院の特許法改革案は議論を十分尽くしていない、損害賠償を減額する特許法はアメリカ産業に良くないと反対している点である。

 すると、大統領がサインを拒否する可能性もあり、もし拒否すると特許法改革案は両院に戻り、全議員の3分の2の賛成票が必要になる。しかし、下院の賛否の数からはとても3分の2になることは考えられない。ということは、たとえ両院をパスしても成立しない可能性がないではないのだ。ただし、バイオ産業やホワイトハウスが反対している店は主に損害賠償の点であるので、この点の条文案を更に修正すれば大統領が同意する可能性はある。

 もう1つのハードルはアメリカが先願主義に移行する条件としてH.R.1908には日本特許庁と欧州特許庁がアメリカ式の発明を発表してから1年以内に特許出願すれば良いというグレース期間を認めた場合に発効するという条件をつけていることである(日欧特許庁は半年間のグレース期間は認めているが、先発表主義は認めていない)。

 これはつまり日欧特許庁に特許法改正を要求しているともいえる。しかもこの要求はグレース期間を1年に延長するだけでよいのか、あるいはアメリカ式の先発表主義も認めろというのか明らかではない。但し、上院案にはこのような特殊な要求は入っていない。よって両院案がパスした時に調整される時にこのハードルが残るかどうかは、まだ明らかではない。

 いずれにせよアメリカ特許法の改革が刻々と現実味を帯び出したことは間違いのない事実である。

 アメリカ特許制度の大改革のもう1つの点は米国特許庁が2007年8月21日に発表し、同年11月1日から実施される新施行規則であり、その内容の厳しさは全世界の特許業界の度肝を抜いた。

 現在の米国特許制度が先発明主義以外の点で他国の特許制度と異なる点は、継続出願といって最初の特許出願からいつでも次々と異なる独占権の範囲(クレーム範囲)を主張する子出願を出願できることである。特許出願は出願してから特許が成立するまで3年くらいはかかるので、この制度はその間に自社のみならず、他者の技術開発動向を察知して特許権の範囲を補正して、的確にカバーできる継続出願を出願できるという実に便利な制度である。

 このためアメリカ企業が基本特許でライセンス交渉する時は必ずそっと継続出願を出しておき、ライセンス交渉で相手企業の技術内容、特許解釈のあり方を知ると、出願中の継続出願の独占範囲を変えて、相手企業の技術をカバーするようにして新しい特許を取得しながら更に交渉するというのが常套手段になっている。

 特許の内容が出願時点に絞られるのではなく何年後かに出直した継続出願で変えられ、場合によっては拡大されていくので相手企業はたまったものではない。しかし、この手口は最近パテント・トロールという特許恐喝会社が米国大企業に用い出してから、米国特許業界の反応は大きく変わってきた。

 パテント・トロールは自社が開発した特許だけでなく、第三者の特許や特許出願を買い漁り、自らは何も生産せず、特許権だけで巨額のライセンス料金を求めるもので市場を拡大したり、技術開発に資する機能は全くない。

 彼らは当然できる限り継続出願を行い、独占範囲を変えながら交渉し、米国大企業さえもキリキリ舞にし始めた。こうしたパテント・トロールの動きから、継続特許出願制度にも大きな疑問が出され始め、それを反映して米国特許庁はこの8月21日に、継続出願の数を2つまでとし、更にそのような出願が複数ある場合には米国特許庁の審査官にレポートも提出させ、その上、クレームの有効性に関する分析も出願人は提出しなければならず、更に特許の独占範囲を示すクレームの数にも一定の数に限定するという画期的な施行規則を出したのである。

 しかし、この新しい規則はあまりに複雑で、しかも出願人に不便である(というより米国特許制度は今まであまり出願人に自由がありすぎたともいえる)ということで、特許業界からかなりの反発が出ていることも確かである。それでもマイクロソフトを中心とする情報産業にとってはこの施行規則改正は朗報であることは疑いもない。

 いずれにせよ、現在特許出願中のある発明者がこの施行規則は米国憲法と米国特許法の違法であるとして米国特許庁を提訴し、差し止めを求めているがこの動きも注目されるところである。このように米国特許法の改革派裁判沙汰にさえなっているのはいかにもアメリカらしい。