<BACK>

第25回 「米国特許制度の歴史的変遷と最近の動き」




  日本では米国特許制度はとにかくプロ特許と思われていようがここにもう少し実態を歴史的に紹介したい。

1. 米国はずっとプロ特許だったか?
 米国は200年以上前に建国してからヨーロッパに追いつけ、追い越せで技術開発や特許を非常に重視してきたことは間違いない。これは憲法に特許制度の骨子を規定し、これを受けて制定された最初の特許法に損害賠償は3倍賠償(実損の3倍額)と規定していた(!)ことからも窺われる。3倍賠償という懲罰賠償は米国法の基となった英国法にさえもないプラクティスであると聞いている。こうした特許制度の下に侵害者がゴネ得を得ることを回避してエジソン、ベル、ライト兄弟等の発明者を中心に米国産業、技術は発展してきた。

 そして米国企業はどんどん巨大になり独占化、寡占化が進んだ。その背景には米国は憲法には三権分立が厳しく規定され、大統領以下米国官庁(以下政府)の権限が経済に関しては極めて弱いので日本の官庁のように企業をコントロールできないためである。

 そのような憲法を作った理由は企業が政府のコントロール無しに自由に活動できる新しい国にしようということと、連邦政府(含官庁組織)に権限を与え過ぎると当時のヨーロッパの国々のように独裁国家になり易いからである。従って憲法上は経済問題を含めてほとんど全ての権限が議会にあるように規定されている。ヨーロッパの難民で出来上がった米国は基本的権限が連邦政府に力がなく、州そして米国市民、米国企業に存在するように憲法を起草し、国づくりを進めてきたのである。

2. アンチ特許時代
 とこうして米国企業は野放図に巨大化し、独占化、寡占化も進んできた。そのため経済や市場システムに深刻な問題が生じると政府は企業や市場をコントロールできないため共倒れになる現象が生じた。これが1890年代そして1920年代の大恐慌である。この時から独占を嫌悪する考え方が普遍化し、特許にも弾劾がかけられアンチ特許時代が始まったのである。これ以降50数年の間は特許裁判があるとほとんどの特許は無効になってしまった。

 当時の最高裁のある判事は判決の付帯意見の中で「この世の中で有効な特許とは当最高裁の裁判にかけられる前までの特許だけだ」とまで述べたほどである。そして同時に独禁法が1890年頃(シャーマン法)及び1920年頃(クレイトン法)に制定され、独占力の強い巨大企業は解体されるようになった。しかしそのために企業間競争は強化され米国産業・技術は再び着々と発展した。

3. 米国の隆盛
 第二次大戦に勝利すると米国は欧州諸国を凌駕して文字通り世界のリーダーになり始めた。技術開発はあらゆる分野で世界の頂点に達し、米国の栄光は月表面にアームストロング機長が降り立った時に頂点に達したともいえよう。

 しかし、この頃から米国産業はおかしくなり始めた。自動車会社をはじめとする巨大企業はものづくりをほったらかし始め、企業運営は技術でなく利益が最優先するようになり、やがて米国市場で最大の商品は製品ではなく企業そのものになり企業売買さえ盛んになったので、企業を育て、最新の製品を開発、販売するマインドは大幅に低下してきた。しかしそれでも軍を中心として基礎技術を開発することは趣味の世界ともいえるので基本技術開発は今でも圧倒的に米国が強い。

 しかし、肝心の物作りは賃金問題や、プロダクト・ライアビリティーの問題や優秀技術者の生産現場離れから海外生産へシフトし、米国製品は日本やドイツ企業に押されるようになり、貿易赤字が著増し始めた。そこで米国は海外諸国からの輸入を規制するために自主規制を強要し始めた。自主規制という名が必要なのは前述したように米国憲法上米国政府には国際経済を営む管轄権がないので(これは議会にある)、外国政府・企業が勝手に自主的に規制しているというイメージを米国社会や裁判所に植えつけるためである。数十年前の鉄の自主規制の時米国消費者は質の良い日本の鉄を好んだため、キッシンジャー国務大臣には外国企業を規制する権限が憲法上なく、自主規制はまやかしで憲法違反であると訴えたが、連邦裁判所は証拠不十分でかろうじてキッシンジャーは無罪と判決した。このためその後の自動車の自主規制では米国政府は通産省と交渉してきたUSTR代表以外にも別ルートで自動車会社の社長3人を送り、交渉は私企業の自動車会社が行っていると繕わせ、あたかも自動車200万台の自主規制は米国政府が課した規制でないと粉飾するために非常に気を使って交渉した(この時私や堺屋太一氏はまだ通産省におり、自動車課のこの交渉を横で見ていた)。

 この自由規制やらダンピングやら構造改革を日本に要求して米国は一時的には経済危機を凌ぐ事ができたが、制約があればあるほど日本製品はどんどん良くなり米国の貿易赤字は減少しなかった(第一次石油危機がきた時、燃費の良い小型車を作っていたのは日本企業だったのでそれまで売れなかった日本車が爆発的に売れ始めた)。日本企業の技術的躍進は米国から課せられる多くの制約、規制の克服と世界からの最新技術の導入と特許出願に支えられるコンスタントな製品開発、改良の絶え間のない努力の姿勢にある。

 当時の世界の特許出願は年間100万件位だったが、日本の特許出願は40万件近くで、米国の出願は10万件そこそこしかなかったのである。マイナーな特許ともいえる実用新案(米国にはない制度)を含めると日本出願は60万件、実に世界の60%に達していた。そしてカーター大統領が米国特許出願の少なさと日本出願のラッシュ(日本企業の米国への出願は当時3万件位でドイツを抜いてトップだった)をみて、「これは一体どういうことだ?」と部下に調査を命じた。

4. 第二プロ特許時代
 そこで米国が気が付いたことは裁判所は特許を過小評価し、また独禁法があまりに強過ぎたため、企業は特許権を思うように使えず当時のIBMは特許を取ることさえ控えていたことである。そして同時に特許という独占権に再注目し、特許権を強化すれば日本や東南アジア企業を抑えられるだろうという思いだった。そうして1981年に特許専門の高裁のCAFCが設立され、それまでのアンチ特許政策から180°転換したプロ特許政策が始まったのである。

 特許が金になることを示した事件は1985年頃のポラロイド/コダック事件であろう。インスタントカメラの特許でポラロイド社は当時1000億円の損害賠償を得、コダック社の全米のインスタントカメラ工場は閉鎖を余儀なくされた(これだけでも数十億円かかったといわれる)。そしてハネウェル/ミノルタ事件ではミノルタ社は米国で40億円の収益しか上げていなかったが、実に120億円の陪審員評決が下され、それを上回る額で和解を強いられた。

 そしてその後レメルソンというエジソンを凌駕する個人発明家が出現し、1950年代の古い出願を何回も出願し直して(当時の米国特許制度では時期の制限なく何十年間でもできた)、1980年代にバーコードを含むあらゆる技術分野で特許を取得し、製品は1つも作らずに(ここがエジソンと異なるところ)全世界の企業から実に何兆円というライセンス収入を得たのである。

 同時に米国特許の対象はどんどん拡大され米国特許庁は何でも特許を許し、ビジネス方法でさえも特許OKになってきたのでレメルソンに刺激された野心家はとにかく何でも特許を取って陪審員訴訟(個人発明家の味方)で脅してライセンス料をむしり取り始めた(著名なビジネス特許にはアマゾン社のコンピュータ画面を一回クリックするだけで商品注文が完成するワンクリック特許がある)。米国特許庁はつい数年位前にブランコの乗り方やサンドイッチにさえ特許を許可したのである!!!

5. 特許安定化時代
 こうした個人発明家や特許恐喝会社のターゲットは段々拡大し日本企業のみでなく、マイクロソフト等の米国自身の超大企業になっていった。しかも小さな取るに足らない部品に関する思いつき特許でウインドウズを締め出そうと争い(今年になってウインドウズXPに代わってウインドウズ・ビスタが発表されたが、これはウインドウズXPが特許侵害判決で使えなくなるからである。)、マイクロソフトは数億円かかる特許訴訟と差し止めを回避するために巨額の和解金を支払わなければならなくなったので米国特許制度は何かがおかしい、乱用されていると問題提起をした。こうして去年から米国議会に特許制度改正が提案され始めたのである。しかもその改正は100年に一度という大改正である。それほど米国特許制度は世界でも特殊でコストのかかるものになっているのである。

6. 米国特許法改正の視点
 これまで提案されてきた改正法案は以下の点である。

@ 安定した特許:先願主義
 今の特許訴訟は判決に至るまで弁護士費用が3〜7億円かかる。その大きな理由の1つは米国は先に発明した者に特許が与えられるという一見論理的には正しいものの、発明した日は研究日誌の記録によってどうとでも変わり得るので、その立証には大変な時間とコストがかかる。

 このため米国を除く全ての国は出願日を発明日と見なすので審査も訴訟もずっと簡単である。出願日に依存する特許制度は、特許という独占権は発明を公開し、社会の技術発展を促すための代償という論理なのでそれはそれで十分な説得力はある。米国を技術最先端国に導き、100年以上も続けてきた先発明主義を放棄することは相当勇気が必要だが、それ以上にコストがかかるこの制度に米国企業自身が疑問を呈し始めたのだ。

A 米国特許庁の問題
 世界の特許庁は過去の文献と比べて特許を許可すべきか決定する。米国特許庁審査官は米国人だから当然英語の文献しか審査できない。ところが多くの技術分野は日本及びドイツの重要文献が圧倒的に多い。米国の文献だけみて特許を許しても、訴訟になり日独の文献を初めて見ると無効になる米国特許も結構あるのだ。

 日本の審査官は英語文献も読めるから少なくとも日米の文献はカバーできる。欧州の審査官はドイツ語、英語の文献は理解できるが日本語の文献は理解できないので15年位前から日本特許庁に合計何百人も審査官を送って日本語文献をコンピュータ翻訳して内容を理解できるようにしてきた。日本特許庁も米国そして欧州特許庁に何人もの審査官を送って外国文献を理解できるようにしている。

 ところが米国特許庁だけこの動きに遅れ、ほとんど何もしていなかったが、やっと問題点に気が付き始め、これから審査官を日欧特許庁に送る予定になっている。また日米欧の特許制度が全て先願主義に統一されれば審査の内容は全て同一になるので審査結果を交換したり協力し合う体制ができる。このためにも米国も先願主義に変わらなければならないと気が付き始めたのである。更に米国特許制度も他の全ての特許庁が行っている全ての出願を公開させることや異議申立制度等を導入して審査の質を高めると共に、世界の国の特許制度と同調させようと改正法は提案している。

B 訴訟制度の改善
 難解な特許訴訟を陪審員の手から少しでも離すため特許裁判制度は少しずつ改善はなされたが、現在の改正案は更に故意侵害の認定(3倍賠償の基になる)やフロード問題は陪審員でなく判事に判断させようと改正している。

C 結論
 以上のように昨年提案された米国特許法改正案は大々的で世紀に一度という改正であり、全米を揺るがした。この改正案は昨年の2006年は選挙のため流れたが今年の2007年から始まる新しい会期に再提案されて審議されていくことが期待されている。