第18回 「イノベーティブなひと」とは?


 前回「ひと」に関して、「環境とのインターアクションの中で自己形成、社会化が進む」と書きましたが、ここでは「イノベーティブなひと」にフォーカスして深堀してみたいと思います。体系化した議論というより、私の独り言としてご一読下さい。と言うのも、最近お目にかかった方々と交わした議論に触発され、昔取った杵柄とでも申しましょうか、高校時代、大学時代に学んだこととイノベーション論の接点がぼんやり見えてきたからです。異分野横断的なアプローチの試行です。

 何らかの課題に直面したときに、解を導くために常とう手段として用いるのが二分法です。一見相反する二つのオプションを机の上に置くというやり方です。マクロ経済に目をやると、ケインズ派とフリードマン派が登場し、政府の研究開発投資においては、基礎研究重視と応用研究重視が常に対立し、人材育成に至っては、理系・文系の二分法が日本では確固たる社会制度になっています。通常、状況に応じて、どちらか1つを選択することになりますが、「イノベーティブなひとの行動原理は?」となると、果たしてこのようにシンプルなものか否か、疑問が生じます。

《高校の文学の授業から》
 ものの捕らえ方に関しては、古くはパスカル(Pascal)*iの「幾何学の精神(Esprit de geometrie)」と「繊細の精神(Esprit de finesse)」の二分法があります。幾何学の精神の持ち主は公知の原理のめがねを通して、繊細の精神の持ち主は目を見開き、感性を総動員して、世の中の事象を捉えようと試みるわけです。「繊細なもの」を前にした時、「暗黙的に、自然に、技に頼ることなく」精神が機能すべきところを、前者は定義、原理にこだわるが故、その姿はこっけいに映る、また、後者に関しては、一瞬でものごとを判断する習慣が身についていることから、わずらわしい論理を避けることになり、よって、推論、構想力により構築される世界に触れる機会を自ら閉ざす結果となる、と記されています。パスカルが投げかけているメッセージは、Aタイプ、Bタイプ、その他にひとを分類することではなく、両者の素養を持ち合わせることの重要性なのです。話は飛躍しますが、サイエンス型イノベーションを推進する際には、この「幾何学の精神と繊細の精神が同居するひと」の存在がカギとなるのではないでしょうか。

《学部の言語学の講義から》
 「日本語の乱れ」の問題をイメージしてください。日本人が日本語を共通言語として持てるという背景には、ある種の普遍性が言語には存在するというファクトがあります。と言いつつも、50年前、20年前、今日を比較すると、常用語句、イントネーション、敬語のルールがかなり変化していることに気づきます。このことを、ジュネーブ大学でも教鞭を取っていた言語学者ソシュール(Saussure)*ii は、言語は普遍性を持つと共に、時と共に変化するものでもあり、この二律背反を解く鍵は歴史性の中にある、と論じています。言語とは、社会的に構築されたものであり、であるが故に、社会化のプロセスを踏むことにより、新たな要素を取り込む潜在力を持つものである、となるわけです。現用語が古典語と異なるのは、二律背反を乗り越え進化するという点にあるわけで、ここでもまた、ダイナミックスの源泉に二つの相反する力のぶつかり合いを見出すことができます。

《大学院の高等教育論のセミナーから》
 今度は「現在日本の大学が置かれた状況」を考えてください。言うまでも無く、「教育」対「研究」、「教育・研究」対「産学連携」、「基礎研究」対「応用研究」、「学部教育」対「大学院教育」、といった異なる方向を向いた力のベクトルが同時に大学を引っ張って(引き裂いて?)います。大規模な、しかも時間軸が入っている連立方程式を解くことが要求されているわけですが、そもそも解が存在することすら不明であり、このような状況下で「どう大学の舵取りをするのか?」という疑問が出てきます。ここでは、キャメロン(Cameron)*iii を引用することにしましょう。環境が激しくかつ複雑に変化する状況にある大学に対して彼が提唱するのが、「Janusian Thinking」です。ローマ神話に登場する左右二つの顔を持つ神ヤヌスに由来しますが、一見相反する見解が同時にもっともである場合、矛盾を乗り越えた解釈、解を出すことにより、大きなブレイクスルーを生み出す発想が登場するという考え方です。柔軟な発想、創造性を総動員する行為であり、それを実践することに意義があるわけです。もちろんその結果大学が元気になるわけですが、これを「ひと」に当てはめると、パラドックスがイノベーティブなひとの力を引き出す役割を担う、となるのではないでしょうか。

《ごく最近のディスカッションから》
 締めくくりとして、ごく最近、ディスカッションで味わった知的刺激の余韻を皆様と共有したいと思います。紙上で、既存の理論に従ってロジックを積み上げ、それを現実に投射し、アクションを起こす、という合理性に基づく思考は、問題に直面する現場ではほとんど機能しないということを誰もが知っていますが、そこに何が欠けているのか、という疑問が生じます。パスカルを引用すれば、幾何学の精神のみに頼っている、Janusianの一つの顔しか見ていない、となるわけで、繊細の精神も総動員して、あるいはJanusianのもう一つの顔もにらみながら、判断を下し行動することが必要なのだ、ということに気づかれることでしょう。しかしここにもう一つ落とし穴があります。何を判断基準とするか、という点です。この疑問に光を照らしてくれるのが「Phronesis」の概念で、野中氏*ivの登場となります。あまり聞きなれない概念なので定義を引用すると「個別具体的な場面のなかで、全体の善のために、意思決定し行動すべき最善の振る舞い方を見出す能力」となります。ここでキーとなるのが主観であり、その主観がよりどころとする価値体系の構成要素である倫理観、歴史観、社会観、政治観、美的感覚なのです。科学的知識と実践的知識を融合してアクションを取るイノベーティブなひとには規範的な側面においても卓越していることが求められるのではないでしょうか。

 知力、感性、価値観を育む。ごく当たり前のことですが、当たり前だからこそ、意識して、またバランス感覚を保ちながら、次世代のひとたちと接していくことにいたしましょう。まずは、自ら知を楽しむことからスタートしませんか!


*i. "Pensees"より。
*ii.Saussure, F. (1916), Cours de linguistique generale, Payot.
*iii.Cameron, K. (1984), "Organization Adaptation and Higher Education," The Journal of Higher Education, 55(2).
*iv.Nonaka, I. & Toyama, R. (2006), "Strategy as Distributed Phronesis,"Institute of Management, Innovation & Organization Working Paper, IMIO-14, University of California, Berkeley.。野中郁次郎&遠山亮子 (2005)「フロネシスとしての戦略」一橋ビジネスレビュー53(3)