第17回 イノベーションの香り


 ある時点、ある国で、その「時の流れ」を感触的につかむには、その国の新聞、あるいはウェッブサイトからキーワードをいくつかピックアップするというのが手っ取り早い方法です。またその国で活気がみなぎっていると言われるサイト(フィジカルあるいはバーチャルな)を、感覚を研ぎ澄ました上で、ぶらぶらしてみるという手もあります。そこで、今日、日本の「時の流れ」を嗅ぎ取るとしたら、皆様どの手段を使いますか?そして、そこから何を嗅ぎ取りますか?

 例えば国内に目を投じて一月ぐらい前からの「新聞」を斜め読みすると・・・ 安倍政権の誕生、その動向、高校の履修不足問題、等々が登場しますが、主観的にキーワードを挙げるとすると「イノベーション」と「高校教育」に絞り込まれます。「イノベーション」に関して言うならば、DNDの常連は、すでに「語りつくされた話」と片付けてしまうことかもしれませんが、いわゆる「専門家の議論」から「社会的議論」へと「イノベーション」の議論のアリーナが移ったわけで、ここに新たな息吹を感じます。

 いつものように先見の目を持つ出口さん(プロフェッショナル!)は、議論を再燃させる仕掛けとして、「『イノベーション25戦略会議』への緊急提言」のコーナーを開設しました。そして、これもまたいつものように仕掛け作りの大好きな私が参加することになりました。ウェッブサイトという準公的なスペースで政策提言を行う、というものでは無く、社会現象の醸造に一石を投じることができれば、というのがここでの私のスタンスです。

 前置きが長くなりましたが、本題に移ることにしましょう。イノベーションに関してはすでに「産学連携講座」の第13回「イノベーションあれこれ」で、イノベーションの「捉え方」について私見をざっくり述べましたが、今回は、それの深堀を試みます。

●イノベーションの源泉
 人類の長い歴史を振り返った時、普遍的な一つの行動が浮かび上がってきます。それは他の動物と差別化するものでもあり、それが故、社会が形成され、世界が変遷してきた、というものです。狩猟採取の時代から、ひとは常に与えられた環境に働きかけ、その環境を変革させることにより、自らの存続を維持し、また新たな環境を創り出してきたのです。そこには「知恵」があり、そこから「技」、「道具」が生まれ、反復作業の中で、また「伝承」のプロセスの中で、人間の英知が蓄積されていったわけです。

 この、「既存のものに新しいものを吹き込み、新たな価値を生み出していく」という行動は、人類始まって以来、延々と引き継がれてきたもので、何も目新しいことではありません。まさに、人々のイノベーティブな行動の積み重ねによって、今日の社会が形成されていったのですから。しかし、この行動の背景にある誘発因子は時と共に大きく変わってきました。その日その日の糧を確保するための行動は、食物の貯蔵が可能になった時点から、先を見据えた行動へと移行し、「社会」のユニットも家族から、集落、自治体へと広がることにより、行動の分化、組織化が進んでいきました。誘発要因は、生存、危機への対応に発して「糧」の蓄積、豊かさの創造へと広がっていったわけです。

 この一連のプロセスに新たな方向性を吹き込んだのが、数世紀前に登場した「近代科学」です。何がドラスティックに変わったかというと、環境へ働きかける際に、従来からの体験的手法に「科学的手法」が、そして「技」、「道具」に「技術」が加わったことでしょう。更に21世紀に入ると、Information & Communication Technologies(ICT)というツールを人類は操作するようになり、情報・知識・創作活動の相対的価値は高まり、時間的・空間的・物理的な制約を一部コントロールしながら行動を取ることが可能になったのです。ICTはイノベーションの対象であると共に、イノベーションの連鎖を促す加速装置でもあるわけです。

●2025年の日本のイメージは?
 イノベーティブであったがゆえ、人類は今日の社会を築き上げ、また、時としては、破壊的な行動により、社会厚生の後退をも招いたのです。そこで、「過去から何を学び、今日現役である私達は未来に何を投射すべきか?」という命題が登場します。例えば2025年の日本をイメージすることにしましょう。「国」としての日本は様々な指標で表現することができます。また、様々な経済モデルを動員してパラメーターの変動による経済成長への影響を予測することも可能です。例えば、研究開発投資を対GDP比率で表し、その割合を引き上げた時の経済成長率に与える効果を計算することはマクロ経済学の演習でよくやりますが、肝心なのは、ベースとするモデルの組み立て方であり、その背景にある、現場でのプラクティスとそこで行動を取る「ひと」なのです。もちろん経済成長モデルの中に「人的資本」は盛り込み済みですが、ここで注目していただきたいのは、「在学年数」などの指標で表しきれない人的資本の「質」の側面です。ひとは生まれながらに授かった本能を核として、環境とのインターアクションの中で自己形成、社会化が進んでいくわけで、だからこそ、2025年に日本をリードしていく次の世代にどのような環境、どのような価値観の社会を提供していくかが今日問われているのです。

●学力とは学ぶ力!
 最後に「環境」の中でも特に再考を要する「教育環境」について一言私見を付け加えます。世界中を見回すと、高等学校等への就学率が97.5%(平成16年度)、高等教育機関への進学率が74.5%(平成16年度)という日本の状況とは対照的に、「学校」を社会制度として組み込む作業を懸命に進めている国も数多くあります。しかし、教育システムの整備が進んだがゆえ、見失ったものが多々あるように思えてならないのです。自らの体験も踏まえて申しますと、子どもとは本来、個性豊か、好奇心旺盛で、とてつもない発想の持ち主なのです。このことは今も昔も変わらないことだと思います。もう一つの普遍性です。学校とは、その素地に「知識好奇心」を埋め込む場であると同時に社会の一員としての個を確立させる作業の場であるわけです。知識の体系化、細分化は不可逆なプロセスで、学校教育もこの流れに無縁ではありません。限られた時間の中で、効率的に知識を伝達することが要求され、高等学校においては、更に大学入試という制約がかけられるわけで、これらの力学の中に今日のカリキュラム及び教育現場の実態があるのです。

 「学力」とは本来、「学ぶ力」であり、それを養う場が学校である、というシンプルな発想が押しつぶされているような気がします。また、少し横道にそれますが、「理科離れ」の議論にも一言。イノベーションと科学技術の関係はすでに様々な視点から取り上げられ、中でも科学技術人材育成の重要性がうたわれています。その文脈の中で登場したのが「理科離れ」の議論ですが、社会現象となった高等学校の履修不足の問題が示唆するのは、「人文離れ」の現実ではないでしょうか。「歴史」とは過去への窓口、「地理」とは世界への窓口、「哲学」とは人間の思考への窓口であり、これらの窓口を覗き込む機会を持ってこそ、2025年の成熟した日本の社会像が描けるのではないでしょうか。