第10回(最終回) 大学経営と社会発展

 本連載も、とうとう約束の1年間を終えようとしている。長いようで短い1年間であった。それでも何とかExitまでたどり着けたのは、出口編集長の叱咤激励の賜である。

 大学は、今、重大な岐路に立たされている。(イ)大学入学者人口が激減しているのに、総数の1/3が定員割れをおこすほど国内の大学は過剰である、(ロ)米国の知財権戦略と中国等の産業技術の急速な追い上げを前に産学連携の重要性はさらに増しているのに、それに応えられる国内大学は極めて少ない、(ハ)大企業をはじめとする日本の産業界は、自社の未来の技術競争力の一部を、大学に託すほどのビジョンもノウハウも持ち得ていない、ことである。

 一体、日本の大学はこうした事態にどのように対処するつもりなのであろうか?予想される戦略は、(イ)現在の税金投入額を維持しながら国立大学学部の統廃合をすすめ、入学者と研究教育の質を維持する、(ロ)今まで以上に競争的外部予算を拡充し、研究のみで生きられる大学・研究者を増やす、(ハ)大企業は、自社の基礎的な研究部門の予算の何割かをすぐれた大学発技術に対する投資(大学との委託共同研究・大学発ベンチャーM&A)に振り向ける、ことと筆者は考える。

 だが、以上の戦略を実行するには、克服されなければならない大きな課題が存在する。それは、日本の大学・企業双方にとって、欧米はもとより中国・韓国・シンガポールなどと比べても比較にならないほどの<意志決定の遅さが存在する>ことである。それこそが、我が国最大の問題であり、自身の技術ポテンシャルを非常に減じている原因であるように思われる。

 日本では、古来より台風が定期的にやってきて野山に洪水を起こしてきたが、同時に貴重な水資源をもたらしてきた。こうした山間部で発生する大量の鉄砲水を農業生産に無駄なく使うため、「棚田」と呼ばれる独特の田園が村民全体の力で作られ、また保水機能に優れた共有林も村民全体の力で大切に保護されてきた。こうして、数千年におよぶ異民族の侵略占領もない村民全体の力による農耕文化は、<コンセンサスを得るためには時間をかけることが一番>というDNAを日本人にもたらした。

 ところが、世界がインターネットとジェット機で結ばれ、我が国もグローバル競争に巻き込まれると、コンセンサスに多くの時間を要する日本企業の経営システムは多大なコストと化すようになった。企業も大学も世界と競争しているのに、必要な意志決定に時間がかかり過ぎるために、結局、早く決めさえすれば得られたであろう機会を逃がす又は腐らせてしまうといった事態が頻発している。

 しかしながら、グローバル競争の神髄は、米国で失敗証明済みの成果主義でもないし(HPにおける女性CEO解任)、社外取締役によるコーポレートガバナンスでもなく(エンロンのスキャンダル)、ましてやMBA万能主義でもない(GMの大赤字)。それは、誰にも平等に与えられた有限な<時間>という資源をいかに活用するかにかかっている。

 例えば、必死に開発を続ける大学発ベンチャーにとっての1日は、大企業にとっての1週間を意味する。つまり、大企業がこうしたベンチャーからの技術導入ないし提携交渉を6ヶ月も意志決定しないということは、ベンチャーにとっての42ヶ月=3年半の損失を意味する。そして、我が国大学発の貴重な技術開発成果は、それだけ減耗または陳腐化してしまう。

 それゆえ、時間をじっくりかけて勝てるグローバル経営などあり得ないのだ。意志決定のスピードを1/2、1/3と速めてゆく努力が、現代の日本企業・大学双方に求められている。今決められることを今日決めずに明日決めるということは、コストであるばかりか有害であるということを、日本人は今こそ自覚すべきだ。

 人類史上で類を見ない少子高齢化が進む日本で、これまでの成長モデルが10年、20年先も不変であるといった根拠のない幻想を捨て、今まだ体力・技術力・資本力が優勢なうちに、歴史的に日本の産と学は全く新しい一歩を踏み出さなければならない。否、学生獲得市場が国内に限られる我が国大学にとって、それは企業以上に深刻な命題だ。

 それゆえ、本連載の締めくくりとして以下のメッセージを残し、本稿を終えようと思う。日本にとって大切なことは、「今日決められることを明日に引き延ばさない決断力」と「百の評論より一の実行力」だということを・・・。