第2回 ベンチャー企業を生むインフラ


 今井賢一氏が監修した「ベンチャーズインフラ」(NTT出版)によれば、シリコンバレーには、ベンチャーキャピタル、コンサルタント、法律事務所、会計事務所、銀行、証券会社、大学、ヘッドハンター、インキューベータなど様々なビジネスインフラがあるという。また、スタンフォード大学名誉教授のウィリアム・ミラー氏は、「Silicon Valley Edge」の中で、このようなインフラを全体としてハビタット(生態系)と呼んでいる。

 このうち私自身も係わっているビジネスインキュベータ、ベンチャーキャピタル、大学の役割に関しては次回以降、稿を改めてやや詳しく触れていきたいと考えているので、ここではハビタット内の人材流動性と、大企業などの役割を考えてみたい。

●人材の流動性

シリコンバレーでベンチャー企業を支えるインフラとして機能している肢体は多く、それぞれに重要な役割を果たしているが、全体として一つの体のような印象を受ける。一つの理由は、互いに深く係わっているというだけではなく、各セクターの間を人材が行き来しているためである。

 大学の教授がベンチャー起業家になる、ベンチャー企業で成功した起業家がエンジェル投資家になる、成功しなかった経験を抱えてコンサルタントになる、コンサルタントが再び大企業のポストを得る、大企業のエンジニアが資金を得てスピンアウトする、銀行に勤めていた者が法律事務所に移る、極論すれば何でもありなのだ。

 一般的に、個人や組織の中に存在する暗黙知を、他者と共有することは容易ではない。文書情報に書き落としても、到底全てを伝えることはできない。最も効率的なのは、知識を持った人間が他の組織の中に入って情報伝達を行うことだとされている。その意味で、シリコンバレーという「人の動く土壌」は、クラスター全体として情報を共有していくために極めて効率的な環境と言えよう。

 この人材流動性自体が、シリコンバレーのインフラなのだ。

 人材の流動性が高いということは、雇用が常に不安定という意味でもあるが、逆に常にチャンスがあるということでもある。シリコンバレーでスタートアップを起業して失敗しても再起可能と言われるのは、このような環境があるからこそである。

 付言すれば、流動性が高いから女性も男性も人生のステージに合わせて、仕事を選ぶことができる。実際、生活コストの高いシリコンバレーでは、夫婦共稼ぎが一般的だ。共稼ぎで、互いに他のセーフティーネットとなれる状況は、奥さんに安定収入があれば旦那が起業に挑戦しても良し、逆もまた良し、ということになる。

 日本でも、旦那が組織に帰属して曲がりなりにも安定収入を得ているうちに、奥さんがベンチャービジネスを起こすというのが現実的な姿かも知れない。

●国立研究機関、大企業

 冒頭に紹介した「ベンチャーズインフラ」ではあまり触れられていないが、シリコンバレーでベンチャー企業を生むインフラとして、国立研究所と大企業も見逃すわけにはいかない。国立研究所としては、ローレンス・バークレー、ローレンス・リバモアがあり(いずれもシリコンバレーから車で1時間程度)、またNASAのエイムズ研究所もある。

 これらの果たす役割は大別すると2種類あり、第一に人材と技術的知見の供給源、第二にベンチャー企業からの調達先となっている。人材と技術的知見は前述のように表裏一体の関係にあるから、人材の流動性の高い環境では、これらの研究所から大学、さらにベンチャー企業や他のインフラに対して人材が流れると同時に技術の伝播も起こる。

 しかし、それ以上に重要なのは、調達機関としての国立研究所、政府機関である。ベンチャー企業にいくら資金サポートを行っても(それ自体不足では仕方がないが)、彼らの製品やサービスを購入する者がいなければ、ベンチャー企業は決して自立していかない。シリコンバレーの発展史を顧みれば、初期の半導体の顧客となったのはもっぱらNASAと軍であったし、インターネットの初期においてもDARPAが研究委託を行うと同時にベンチャー企業の技術を自分のために調達している。

 このようなベンチャー企業からの調達は、公的機関に限ったことではなく、多くの大企業でも同じ傾向が見られる。即ち、自社で開発するよりもベンチャー企業であっても外部から調達した方が時間も資金も節約できるとなれば、積極的に外部調達を進める。こうした環境がなければ、シリコンバレーのベンチャー企業もなかなかテイクオフできない。

 大企業の果たす役割として、最終的にM&Aによってベンチャー企業を買収するという要素も重要である。日本の場合には、起業家は自ら会社を所有して社長でいることを目指す傾向があるため、大企業に買収されるというと何か否定的な響きがあるが、ここでは立派なエクジットとして賞賛される。

 バブル時代のシリコンバレーでは、無数のベンチャー企業がシスコ・システムズに買収されることを夢見ていた。このような大企業の存在も、重要なインフラといって良いだろう。

 ベンチャー企業が育つインフラについて考えていくと、結局のところ、大企業も含めた健全な経済社会とは何かという問題に行き着くのである。