第6回 小沢秀雄社長との出会い


 われわれが開発した口腔粘膜細胞を使った培養皮膚の事業化にもっとも熱心だったのはニデック社であった。ニデックはもともと社長の小沢氏自らが開発した眼内レンズで世界屈指の優良企業であったが、眼の治療だけでは飽き足らない小沢社長は、21世紀委員会を組織し新しい医療のシーズの探索にとりかかっていたのである。このとき社長の意向をうけて先頭をきって活躍したのが同社の大須賀氏である。1998年のクリスマスの日、大須賀氏の周旋により、蒲郡のニデック本社で私ははじめて小沢社長に対面した。西郷隆盛を思わせる堂々たる風格に圧倒された。短いディスカッションのあと私は数百人の社員の前で培養皮膚を中心とした再生医療の話をした。講演が終わり、近所の料亭で懇親会が催された。私は小沢社長と向かい合わせの席だったが話ははずまなかった。食事がすすみお開きの時間がせまってきたが、社長の口からは事業化の話は一向に出なかった。

 少々がっかりしたが、こうした経験は方々で経験していたので、いつものことかと思っていた。培養皮膚の普及を最初に計画したときに私がイメージしたのは血液バンクである。公的な資金で運用されるバンクに培養皮膚を保存し、熱傷などの万一の事故にそなえるというシステムである。現に数年前には、ロシアの少年、コンスタンチン君が札幌医大で培養皮膚の移植手術をうけている。私は公的バンク設立のために愛知県庁や名古屋市に何度も足を運んだが全く理解はえられなかった。典型的な公務員の対応で一向に埒があかなかった。一連の交渉の過程で、私は国や県といった公的機関の無情さにつくづく嫌気がさしてきた。同時に、ボストンでみたバイオベンチャーの希望に満ちた雰囲気に強く惹かれていた。

 こうしたこともあり、小沢社長との面会には大きな期待をもって望んだのだが、なかなか反応がない。いよいよ食事会がおわり、かばんをもって玄関にむかったとき、並んであるいていた小沢社長の口から、「事業化することを決めている」といった意味のことをいわれた。「事業化の方向で検討する」という言い方ではない。公務員の使うこの台詞は結局なにもしないということである。社長の一言は本当にうれしかった。理由なく感動した。大げさではなく帰りの車の中で涙がでそうになった。
 こうして私と小沢社長の二人三脚で日本初の再生医療ベンチャーがスタートしたのである。


▲蒲郡市に設立されたジャパン・ティッシュ・エンジニアリングの社屋




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