第5回 臓器工学研究会の設立


 1995年ころになると、研究室での培養表皮の生産は完全に行き詰まっていた。周辺の病院や大学からの培養皮膚の依頼は増え続けていたが、現行の医療で制度の中では保険点数表に搭載されていない医療行為は検査、入院を含めてすべて自費で行うか、全く無料で行うほかはない。すべて自費を患者さんに請求するわけに行かないので、結局培養皮膚は無料で行うことになる。

 かくして先端医療はやればやるほど赤字になるという矛盾がはっきりしてきた。この時期個人的な事情(教授選が迫ってきた)で研究よりも雑用に多くの時間をとられるようになってきていて、培養皮膚バンクの設立はほぼあきらめた状態になっていた。
 ある日、愛知県科学技術交流財団の惨事をされていた小坂氏から電話があり、同財団の主催する研究会で講演を依頼された。
 この会で私は主として培養皮膚の科学的側面について講演したあと、アメリカでは産業化されていることに触れた。この一言に小坂氏の触覚がはたらき、愛知県内の企業を対象にした再生医療関連の研究会を主催しないかというお誘いをうけた。バイオの先端医療産業というというイメージが小坂氏の「何か」刺激したのだろう。かくいう私も「何か」を感じるところがあり、企業化の方々を対象にさまざまな分野の再生医療の連続講演会を主催することになった。

 「臓器工学研究会」とい名前がつけられた。参加企業は20社程度を対象に、足掛け2年にわたって10回の講演会をひらいた。培養皮膚、培養骨、培養軟骨など今日産業化されているほとんどの技術を紹介した。
 1998年の暮れになって研究会の最終日に私は培養皮膚の産業化を提案した。小坂氏のコーデイネートで企業間で話し合いが持たれ、最終的に有力企業が4社ほど興味をもってくれた。

 ここでひとつ問題が発生した。もし培養皮膚でベンチャー企業を作るとすれば、日本ではじめての事例になる。今後大きく発展するであろうこの分野の第一号企業になるはずである。そこで私としては、○○会社の再生事業部という形ではなく、全く新たに会社を設立し、再生医療に特化した企業をつくりたかった。
 また出資形態も一企業の影響力が強く出過ぎないように多くの有力企業の出資という形をとり、より広く社会の参加を期待したかったのである。ところが有力企業のうち、コンタクトレンズで有名なある企業は自社単独での事業化に強くこだわり、結局話し合いの席をけって退場してしまったのである。
 この時点で残る4社が私の希望に賛同する形で、企業化の可能性が出てきたのである。


▲(株)ジャパンティッシュエンジニアリング社の
設立記念式典および記者発表(中央が小沢社長)




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